遠い山なみの光

カズオ・イシグロ/小野寺 健訳(2007年刊 ハヤカワepi文庫)

2009/06/21読了、2009/06/21メモ

奥深きイシグロワールド

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫) (文庫)
遠い山なみの光

「浮き世の画家」、「充たされざる者」に続けて3作連続で読んだ本作はイシグロの処女長編。イシグロの作品順としては2→4→1と前後するのだけれど、前回、紹介した柴田元幸氏の講演のようなイシグロ評、作品評を他にもいくつか目にしていたので、その事情が頷けて面白かった。

本作と「浮き世の画家」と、日本語を解しない日系人イシグロが戦後の日本を舞台にしてテーマもプロットも共通するところの多い作品。当時「このまま日本ネタで書いていたらこの人は煮詰まるだろうな」と柴田氏同様に誰もがそう思ったろう、2作続くと、くどいなと思える点は確かにある。

それでも素晴らしさは余りある。僕は「わたしたちが孤児だった頃」、「わたしを離さないで」の傑作の評高い近作を読んでから入れ込むようになった、本作も第2作「浮き世の画家」と順序を逆に読んだことになるのだが、27年も前の初期作品からして充分に読み応えある、イシグロの異色とも呼べる才能がよく分かる。

文庫に収められている解説で池澤夏樹氏が小野寺氏の手による訳を絶賛しているのだが、その訳者小野寺氏をして

カズオ・イシグロの世界の本質は、第五作「わたしたちが孤児だったころ」(2000)に到ってようやくはっきりしてきたように見える

といわせているほど、イシグロの作品は奥の深い、深遠な世界を持っている。「孤児」を皮切りにしてその世界に入ってみた僕も完全にはまり込んでしまった。今回の本作で僕には累計5作品になる、僕も自分なりの視座で「これがイシグロなんだ」という要素をはっきりと感じ取りながら読めたように思う。

運命に翻弄されつつアイデンティティを問う

以前、「離さないで」でも述べたが、「運命」と「アイデンティティ」が人生に関わる意味を問うところに妙味がある。

訳者小野寺氏と解説池澤氏の言葉を借りるのは非常に安易なのだが、さすがに2人の評は適確でかなわない。

イシグロの作品の特徴──という以上に、本質をなすのが記憶であり回想であるのだが、過去が作中人物によって語られてゆく、しかし、どこか謎で曖昧な部分を残したまま、最後まではっきりとした輪郭が示されない。小説とは読者が各自のイメージを描くものであるけれど、イシグロのはそのイメージさせる質がまるで違っているように思える。読んでいる側は懸命に推測せざるを得ない、でも、それはミステリーのような本題ではない、という具合に。

過去の回想、記憶の再現──をイシグロは作中人物の述懐でなく、会話の中で浮き上がらせようとする。生の会話がメインであり、第三者としての語り手による適確な説明、解説がなければ、読者は必死にその状況を自分なりに想像する、作りあげてゆくしかない。「この関係は一体、どうなっているのだ?」という不思議さを抱きつつ、作中の彼らが自ら種を明かすことはもちろんない。状況を知って落ち着きたいのに落ち着かない、安心できない。読者からすると、その霧がかかったような世界にいつまでも置かされる、距離感というか遠さが妙味である。

静かなカメラワーク

A Pale View of Hills (ペーパーバック)
A Pale View of Hills

珍しくイシグロが作中で「解説」している部分には僕も「おや」と引っかかった。普通の小説であれば自然な説明であり、読者も無意識に要求するものなのだが、イシグロは安易にその手法をとらない。

池澤氏も「会話のうまさ」を解説で述べているのだが、次の指摘が特に見事である。僕も自分で引っかかった訳がよく分かって面白い。


作家には、作中で自分を消すことができる者とそれができない者がある。三島由紀夫は登場人物を人形のように扱う。全員が彼の手中にあることをしつこく強調する。会話の途中にわりこんでコメントを加えたいという欲求を抑えることができない。司馬遼太郎はコメントどころか、登場人物たちの会話を遮って延々と大演説を振るう。長大なエッセーの中で小説はほとんど窒息している。・・・


カズオ・イシグロは見事に自分を消している。映画でいえば、静かなカメラワークを支持する監督の姿勢に近い。この小説を読みながら小津安二郎の映画を想起するのはさほどむずかしいことではない。特に、旧弊な緒方とそれを疎ましく思っている息子二郎の関係を第三者である悦子の視点から見る描写など、まさに悦子は低い位置に固定されたカメラである。そして、作者のイシグロは更にその悦子の背後にひっそりと隠れている。この自信は無視できない。

司馬の大演説・・・には大いに頷け笑える。僕も小津の「東京物語」をビデオで見たことがあるが、本当にあのモノクロ映画のような、静かに展開する戦後の情景が本作を読んでいても浮かび上がってくる。

「美しい」というのも変ではある。イシグロの作品の主題は先にも述べた運命であり、不条理であり、アイデンティティの苦しみであり・・・なのだけれど、イシグロの独特の描き方、筆力がそれらを美しいヴェールで覆っている。僕がひかれるのもそこである。本作も「離さないで」や「孤児」のような大作、というのとは違うけれど、処女長編にしてそれらにも劣らない非常な秀作であることは間違いない。

記憶というのは、たしかに当てにならないものだ。思い出すときの事情しだいで、ひどく彩りが変わってしまうことはめずらしくなくて、わたしが語ってきた思い出の中にも、そういうところがあるにちがいない。たとえば、あの日心にうかんだやりきれないイメージが、果てしなくつづく空白な時間にわたしの心を去来していた無数の白日夢よりもはるかに鮮烈なまったく別のものになったのは、あの日の午後に虫が知らせたせいだと考えたくなる。

満足度:★★★★★

余録
あまりにも感動してペーパーバックを買ってみたのだが、日本の記憶が薄いはずのイシグロの描写と訳者の力量とにあらためてうなされるばかりである。


 

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