野分

夏目漱石(1956年刊 岩波書店・漱石全集第4巻)

2003.7.7読了 7.12メモ

明治という時代の雰囲気

新潮文庫

漱石全集第4巻に収められていた『草枕』に続けて読んでみたもの(『二百十日』はさらりと読んで途中でやめてしまった)。

漱石を続けて読んでいると、自分も漱石のように世間から少し距離を置いて冷静な眼で社会を見つめているような気持ちになる。現実社会から目をそらすのではなく、隠遁するのとも違う心地好さがある。ビジネス書やジャーナリズムや自己啓発書といった他の書物を手に取ろうという気が起こらなくなってくる。漱石の書いた明治という国家の雰囲気にずっとうずくまっていたくなる。

漱石の決意表明

本書には、大学の文科を卒業したばかりの二人の友人が登場する。

かたや裕福な趣味に富んだ秀才の中野君、かたや貧しく厭世家で皮肉屋の高柳君。恋愛を語る中野君には、美しい妻を手にした結婚式を挙げさせ、高柳君には文学で身を立てようとするも金がない、時がない、世間が寄ってたかって己を苦しめると不平ばかりをこぼし、ついには病に伏す、まさしく両極端の設定を用意する。そこに、八年前、大学を卒業してから何度か地方の中学教師を務めるが、自己の信念が強過ぎていつも周囲と衝突してしまって職の続かない、東京に戻ってきて「もう教師はやらぬ」「筆の力をもって社会状態を矯正する」と決意した、同じく文学者の主人公、白井道也を交わらせる。

地方の教師を務めるもうまくゆかない、己の真直ぐな性格を曲げない白井道也先生は、『坊つちやん』のおれであり、また、山嵐である。そして、朝日新聞社に入社し、いよいよ文筆業に専心しようとした漱石そのものである。

この『野分』には、『猫』や『坊つちやん』のような全編を貫くユーモアはないし、後の『三四郎』や『こころ』のような恋や青年の悩みといった読者を魅了するストーリー性もない。面白みやエンタテインメント性には全く欠ける作品であるが、漱石もそれを充分に自覚して書き切ったはずである。

白井道也先生は、貧しさを懼れず、世間の評価を気にせず、己の信念を貫こうとする。雑誌に所論を発表し、青年のために演説するその姿は、これから小説家として生きてゆく決意を固めた漱石の所信表明、信念の発表に他ならないからである。

『野分』には、「苦痛や困難や人生の行路にある障害に進んで飛び込」もうとしている文学者、漱石の強い意志がみなぎっている。

素晴らしき哉、師弟愛

自身はうまく教師を務められなかった、節を曲げてまで周囲とうまく折り合いをつけられなかった漱石だが、社会を、日本という国家をつくるには教育によってであることをもちろん、認識していた。

本書にもそれは現れる。かつて越後の中学時代に白井道也先生を追い払った当事者である高柳君は、やがて東京で白井道也先生の生き方を知るにつれ、傾倒してゆく。道也の寄せた雑誌の論説に開眼させられ、道也の演説に生まれて初めての痛快さを感じる。そして、ラストで高柳君はこう叫ぶ。

「先生、私はあなたの、弟子です。」

『三四郎』における三四郎と廣田先生のように、『心』におけるわたしと先生のように、漱石は師弟愛を好んで書いた。そして、実生活でも漱石門下には多くの弟子が集まり、漱石を慕った。

満足度:★★★★

・・・道也はかう考へて居る。だから藝を售つて口を糊するのを恥辱とせぬと同時に、学問の根底たる立脚地を離るゝのを深く陋劣と心得た。彼が至る所に容れられぬのは、学問の本體に根拠地を構へての上の去就であるから、彼自身は内に顧みて疚しいところもなければ、意気地がないとも思ひ付かぬ。頑愚抔と云ふ嘲罵は、掌へ載せて、夏の日の南軒に、虫眼鏡で検査しても了解が出来ん。

三度教師となって三度追ひ出された彼は、追ひ出される度に博士よりも偉大な手柄を立てた積りで居る。博士はえらかろう、然し高が藝で取る称号である。富豪が製艦費を献納して従五位を頂戴するのと大した変りはない。道也が追ひ出されたのは道也の人物が高いからである。正しき人は神の造れる凡てのうちにて最も尊きものなりとは西の国の詩人の言葉だ。道を守るものは神より貴しとは道也が追はるゝ毎に心のうちで繰り返す文句である。

愛は己に対して深刻なる同情を有している。只あまりに深刻なるが故に、享楽の満足ある場合に限りて、自己を貫き出でゝ、人の身の上にも亦普通以上の同情を寄せる事が出来る。あまりに深刻なるが故に失恋の場合に於て、自己を貫き出でゝ、人の身の上にも亦普通以上の怨恨を寄せる事が出来る。愛に成功するものは必ず自己を善人と思ふ。愛に失敗するものも亦必ず自己を善人と思ふ。成敗に論なく、愛は一直線である。只愛の尺度を以て万事を律する。成功せる愛は同情を乗せて走る馬車馬である。失敗せる愛は怨恨を乗せて走る馬車馬である。愛は尤も我儘なるものである。

(追記)2003年7月17日毎日新聞「余禄」に白井道也先生登場


 

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