夜想曲集---夢の残滓

カズオ・イシグロ/土屋政雄訳(2009年刊 早川書房)

2009/07/04読了、2009/07/04メモ

音楽とは回想であり記憶であり

夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (単行本)
夜想曲集
音楽と夕暮れをめぐる五つの物語

残る3編を読了。それぞれにセパレートな味わいがあり、前回、記したように従来作と趣の違う新しいイシグロを見る愉快さと、同時に、いつものイシグロらしさも確かにベースにあることが伝わってくる、その形を変えて現れてくる楽しさが今回は興味深かった。

第4編「夜想曲」は、前回、記した「降っても晴れても」と同様、思い切りコメディータッチでいながら、あとがきで訳者も指摘しているように『充たされざる者』に似たシュールさがあることを僕も読みながら感じていた。『充たされざる者』のメモで「どうも顔のない人間を見ているような・・・」と書いたとおり、まさしく今回は登場する2人が顔を包帯で覆われているのだ(=本文の言葉を借りれば「包帯ぐるぐる巻き」であり「鉄仮面」であり)。加えてホテル内が舞台という点で、三谷幸喜の「THE 有頂天ホテル」をも思わせる。哀しさを描けるイシグロの、無論、それだけでない見事なエンターテイナーぶりがいかんなく発揮されている。

ミュージシャンを志したイシグロ自身の投影

一時、ミュージシャンを目指したというイシグロの、その後の小説の才からしてきっと音楽でも充分なレベルに達したろうけれど、夢かなわなかった在りし日の姿が、今回の5編全編にイシグロ自身として垣間見える。

特にコメディー版の2つを除く1、3、5編は登場する音楽家が若く、前途ある未来を目指して意気盛んでいる、けれど実際のその後は・・・という点に若き日のイシグロ自身が濃く投影されているのだろう。一方でコメディータッチにした2、4編はそれぞれ主人公の僕とおれが47歳と38歳の設定になっていて、目指したけれどかなわなかった、ダメだった、──でも本人はまだ認めたくない──という、前途にもうロマンと希望が見えないはずのことが自覚できている分、コメディーにしたのだと思えなくもないで一層、愉快になる。

『充たされざる者』の中にも、青・壮・老と姿を変えた主人公の分身、かつ、イシグロ自身の一部が登場していたのだけれど、本作の中で一番、現実感があり、若き日のイシグロらしさを彷彿とさせるのが3編の「モールバンヒルズ」。

大学をやめてまで音楽の道を志そうとしたぼくが、姉夫婦の経営するカフェで一夏を過ごすストーリー。理想に燃えている若者の前に客としてやって来たスイス人音楽家夫婦。彼ら夫婦の音楽家としてのキャリアや現在の夫婦間にしのびよる斜陽の危機に興味をひかれ、また、「自分だって十代の頃は音楽に夢中だった」姉夫婦の、現実のあくせくとした生活ぶりに苛立つ。

夢の残滓

曲作りに集中するためにやって来た、野心に満ちている「ぼく」に2組の夫婦が影響を及ぼしたとはイシグロも一言も触れていない、でもことのきの遭遇が今後の「ぼく」に間違いなく影を落としていく出来事なのだ・・・という設定。

そして最後の5編「チェリスト」の不思議な出来事のあと、7年後に示される「この世」の現実。連作短編というだけに、特に1、3、5がストレートに分かりやすい順になっている。5編いずれにも「夢の残滓」とでもいうべきほろ苦さが漂っている。

イシグロの作品に共通するのが、読了後にこそ一層、広がってゆく世界。『遠い山なみの光』、『浮き世の画家』、『充たされざる者』、『わたしを離さないで』・・・。いずれも読み進めている間は洞窟の中を緊張しながら微かな光を探して前に進んでゆく感じの、そして読み終えて今進んだ行路をじっくりと振り返ることに妙がある、といった感じがこの短編集にもある。短編は繰り返し読み返せるところがいい。非常に面白く、読んでいる時よりもこうしてメモを書き残している時の方がずっと楽しい時間になった。

余録:イシグロと春樹の引き合わせ

バルトーク : 管弦楽のための協奏曲 / ヤナーチェク : シンフォニエッタ
今売れているらしい
ヤナーチェク

村上春樹とイシグロの、ともに現代を代表して、互いに認め合う作家2人は通じるところも少なくないのだけれど、本作にも春樹の『1Q84』で関連商品が売れているという一つの「ヤナーチェク」が3編に登場。僕自身はまだ『1Q84』を読んでおらず、ヤナーチェクも聴きようがないのだけれど、春樹関連のニュースを見て、本作を読んでいて、2年前のチェコ旅行の経験から「いかにもチェコ語な響き・・・」と懐かしく思っていた次第。スペルにすると Janáček 。蝶々の止まった「ハーチェク」がチェコ語独特の表記。どんな音楽なんだろう?

もう一点、やはり『1Q84』で引用されているというチェーホフは、訳者土屋氏のあとがきによればイシグロが「大きく影響を受けた作家の一人」だそう。

ヤナーチェクは2人にとってもお互い偶然だったはずの、ポール・オースターの『トゥルー・ストーリーズ』、また春樹自身の『東京奇譚集』のように相通じる二人だからこその偶然を超えた引き合わせが面白い。

一遍ずつ採点を付すのも難しいのだけれど

  1. 老歌手 Crooner ★★★
  2. 降っても晴れても Come Rain or Come Shine ★★★★
  3. モールバンヒルズ Malvern Hills ★★★★
  4. 夜想曲 Nocturne ★★★
  5. チェリスト Cellists ★★★★

  6. 全編を通して Nocturnes ★★★★★

質としてはモールバンヒルズが一番に思えるけれど、個人的にいちばんいいと思えるのはやはり「降っても晴れても」

エミリはぼくに半ば背中を向け、長い間じっと黙っていた。サラ・ボーンの≪パリの四月≫が始まった。多少スローすぎるとも思うが、とても美しいバージョンだ。そのサラに名前でも呼ばれたかのように、エミリがぎくりと顔を上げた。ぼくに向き直り、首を横に振った。

「嫌よ、レイ。あたながもうこういう音楽を聞かないなんて、信じられないし、認めたくない。昔はよく一緒にレコードを聞いたじゃない。大学に来るときママが買ってくれた小さなプレーヤーで。あれをなんで忘れられるのよ」


 

  Related Entries


Message

メールアドレスが公開されることはありません。