野火

大岡 昇平(昭和30年 角川文庫)

2002.1.12読了 1.19メモ

切れる文章

新潮文庫版

丸谷才一氏の『文章読本』で取り上げられていた本である。同書で数多く引用された作品の内でも、とりわけこの『野火』のレトリックの素晴らしさが絶賛されている。正月、福岡へ帰省中のバスが大渋滞に巻き込まれたこともあり、そこから読み始めたら、のめりこんでしまった。翌週、鹿児島へ行く長い旅程の車中で読み終えた。一年の初めにこの上ない感動を味わえた、名作に触れることのできた喜びが大きい。

このところ読んでいたのが実用書中心であったから、それらとは全く違う文章の質が快い。文章の、というより、自在に操られることばのキレ、そして同時に重厚感。僕らが観念でしか知らない、貧弱な想像力でしか思い描けない戦場を舞台にした小説。かつては、まぎれもなく現実であった人間の物語を、現在においては、もはや非日常、超現実のものとしてしか思い起こせない興味深さも手伝って、瞬く間に小説の世界に入り込んでゆく。生きながらえた俘虜のかいくぐる特異な情景が、まさしく生きるか死ぬかの極地にあって後退を許さない鋭い刃先で描かれてゆく。のめりこんでゆくようにして読む。久しぶりに小説の面白み、醍醐味を味わうことができた。

物語の展開、そして比喩が素晴らしい。一般に比喩というと、冗長に流れてしまいがちのものだが、本書のそれは実によく研ぎ澄まされている。丸谷氏の讃美が納得できる。読んでいてごくりと固唾を飲むシーンが数度ではない。

戦争文学

もちろん、表現技術をことさらに取り上げるものではない。読んでいて文章の質が快い、というのは失礼な感動でもあろうか。あくまでこの作品の主題は、敗戦が決定づけられた、人間の生きてゆく意思を非情に奪う極限の地の中でさまよう人間の心の動きを見据えたものである。戦時下で人間の行動がどこまで奇怪に振れるものか、ほぼ実話に基づいているであろう、この小説の説得力には、読者の安易な評価を許さない厳しさがある。口を開くことさえできない重さがある。

けれども、同時に言えるのは、これほどの重苦しいテーマを最後まで語り、そして読者の緊張感を持続させるためにも、それだけの表現技術が必要なのだということだ。でなければ読者も、この人間の内包する恐ろしさに正面から向き合えないだろう。

新刊が出ると、どうしてもそちらに興味をそそられてしまうが、こうした名著の心への残り方を痛感させられる。年の初めに読めたこともいい機会だった。作者が渾身の力を込めた力作に向かい合い、こちらも真剣に対峙してゆけるような、読書の緊張感を味わえるような本にもっと触れるようにしたい。

著者には他に戦争文学として『レイテ戦記』、『俘虜記』もある。今回の『野火』に心を揺さぶられたことを契機に、続けてこれらの作品も・・・、という具合には正直なところその勇気がない。それでも、戦後文学を代表する著者の作品にこうして一冊でも向き合うことができて良かったと思っている。生涯の内に一度はきちんと目をそらさずに考えたい主題である。

僕も全くの予備知識を持たずに読んだからこそ、衝撃が大きかった。あえてここではストーリーについて、一切触れない。

満足度:★★★★★


 

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