わたしを離さないで

カズオ・イシグロ/土屋政雄訳(2006年刊 早川書房)

2007/03/25読了、2007/04/01メモ

甘美な幼少期、友情の物語

わたしを離さないで (単行本)
わたしを離さないで

カズオ・イシグロの作品を読んだのは、前作『わたしたちが孤児だったころ』に続けて2作目。『孤児──』もそうだったが、著者は幼少年期の甘美な世界を描くのが実に上手い。

とはいえ、ただ甘く美しいのではない。どちらかというと苦く切ない、哀しい、ばつの悪い思い、気まずさ、やましさ・・・といった普通、目を向けない、忘れようとしている部分をきっちりとすくい上げるのだ。

この世は必ずしも善ばかりでなく、悪もあるし、醜いことも残酷なこともある。成長し、大人になるにつれ、人はそうした負の側面への対処を自然に身につけてゆく。誰もが適度にあしらい、かわしてゆく術を身につける。けれども、幼少期の頃は経験値を持たないだけに、ちょっとしたことに衝撃を受け、うろたえ、とまどう。その繊細な、微妙な感情の動きが丹念に描かれる。

本作でも小さな頃からの学校(のようなもの)と寄宿舎(のようなもの)を舞台に、子どもらの友情と成長と離別、そして、今、再会し、かつての時代を振り返る回想シーンで物語が構成されている。

バリアに生きる心の拠り所

甘美な青春小説に終わらないのは、「のようなもの・・・」と書いたように、物語の設定に不思議な違和感があるから。読み始めた頃のどことないその違和感は、途中ではっきりと特殊な世界であることが明かされる。ある時点で、カタン、と音を立てて動き始める。戦慄が走る。特殊な世界に足を踏み入れた読み手も、もはや後戻りを許されない。

SF的な設定である。かといって荒唐無稽な話ではない。非現実的とはよべない恐ろしさがある。SF、ミステリー、サスペンスのそれぞれの要素をもまとっていて、どこまでも正当な文学、純文学を貫いている。今、生きている自分は、私たちは何なのか、生の重みを問いかけてくる。重い拳で殴られたような感触が読み終えても消えない。

物語の舞台は「施設」。幼年時から多感な十代にわたって、そして施設を出た後にその当時を回想するというように、一貫して登場人物のアイデンティティは施設に拠っている。

特殊な設定であるから当然とはいえ、この「施設」に似たような状況は現実にも数多くありそうである。孤児を、障害者を、病人を、罪人を受け入れる基盤。「シセツ」という枠に囲まれていなくても、肌の色や民族や生まれや・・・社会とはバリアの張られた空間はここかしこにある。一律に弱者と呼ぶには抵抗があるが、うっすらと影を帯びている、といえばいいだろうか。

運命、宿命、そして使命

前回、「わたしたちが孤児だったころ」の最後に引用した部分が、本作にも通じている。もう一度、引用してみると──

おそらくそんな心配などせずに、人生を送っていくことのできる人々もいるのだろう。しかし、わたしたちのような者にとっては、消えてしまった両親の影を何年も追いかけている孤児のように世界に立ち向かうのが運命なのだ。最後まで使命を遂行しようとしながら、最善をつくすより他ないのだ。そうするまで、わたしたちには心の平安は許されないのだから。

(「わたしたちが孤児だったころ」)

日なたを歩き続けている人には、何も感じることはないだろう。思う必要はないかもしれない。けれども、影の部分に共感をはせられるなら、「孤児──」以上に、本作の読み応えは大きい。人生には運命がある。本人の意思や努力や・・・ではどうともできない宿命がつきまとう。誰しも運命に抗いたいと思うときがある。病や死や出自や・・・必死に抵抗して生きるか、そして抗えないものとして静かに受けとめるときもくるか。

「孤児──」の引用部分を今、あらためて読み返すに、訳者も「運命」と「使命」とを分けていることが深い示唆を与えてくれている。

本作は、米国の「タイム」が選ぶ1923年から2005年の文学史上の作品を対象にしたオールタイムベスト100に、刊行したその年に選ばれる快挙をみせた。また、ニューヨークタイムズ他でも2005年度のベストブックに選ばれる等、絶賛の嵐を巻き起こし、2005年に英語圏の小説で最も話題になった一冊という。

思うに、それは主題のメッセージが強い、というばかりでなく、読書は読者の数だけ読み方があっていいように、本作から何を読み取るか、著者が伝えようとしたかったのは何なのか、極めて多くの読み取り方ができる本だからであろう。

僕にとっても考えさせられることの実に大きかった、数年に一本のベスト作品であった。

"Never Let Me Go" わたしを離さないで──

直訳すれば、わたしを行かせないで。行きたくない。行かせたくない。でも、運命はとめられない。

満足度:★★★★★

「あの日、あなたが踊っているのを見たとき、わたしには別のものが見えたのですよ。新しい世界が足早にやってくる。科学が発達して、効率もいい。古い病気に新しい治療法が見つかる。すばらしい。でも、無慈悲で、残酷な世界でもある。そこにこの少女がいた。目を固く閉じて、胸に古い世界をしっかり抱きかかえている。心の中では消えつつある世界だとわかっているのに、それを抱き締めて離さないで、離さないでと懇願している。わたしはそれを見たのです。正確には、あなたや、あなたの踊りを見ていたわけではないのですが、でも、あなたの姿に胸が張り裂けそうでした。あれから忘れたことがありません」

※解説:柴田元幸(翻訳家)、新聞各紙書評──朝日:小池昌代(詩人)、読売:茂木健一郎(脳科学者)、毎日:若島正(翻訳家、評論家)、日経:青山南(翻訳家)──らも高評価。


"Never Let Me Go" --- 運命、宿命、そして使命

 

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