その名にちなんで

ジュンパ・ラヒリ/小川高義 訳(2004年刊 新潮社クレスト・ブックス)

2005.04.23読了 04.23メモ

人生を運命付けた名前

2004年刊新潮社クレスト・ブックス

週末の、時間の空くときだけの読書習慣ゆえ、随分前に買ったままの本をようやく手にし、3ヶ月かかってようやく読み終えた。評判通りに素晴らしい作品だった。読み応えある物語であった。年々、減ってゆく読書量、早過ぎる気もするが、今年はこれ1冊読むことで充分に満足できそうだ。

父の死を救ったのが手にしていた一冊の書物であったことから、ロシアの文豪にちなんでゴーゴリと名付けられた息子。本書は、アメリカに移住した父母と、アメリカの地で新しく家族に加わった子ども達の歩みと運命を綴ったものである。

祖国を離れてアメリカに渡った父母はともにベンガル系インド人で、彼らが初めて授かった子どもには、祖国の通例どおり、祖母から名前をもらうはずだった。ところが、インドから送られたはずの名前が事故で届かないところから、この物語が始まる。揺れてゆく。それでなくとも、移住先の地に不安だらけの母アシマの心を大いに揺さぶる。祖国を遠く離れて、心許せる知己のいない地で、暗く重苦しい雰囲気に包まれる。

息子に付けられたゴーゴリという名前は、やむを得ず当座の名前としてのはずだった。しかし、インドと違いアメリカでは、幼年時代の通称というものはない。家族の思惑を無視して、アメリカ社会ではゴーゴリとして通用してゆく。父母も、やむを得ないと思いつつ、悪い名前ではないと慰めようとする。実際、そう思うようになる。

ところが当人、ゴーゴリは物心つくようになってから、この名前が気に入らない。本人は、本来、祖母からもらうはずだったこと、また、その代替案として名付けられたゴーゴリの名前の由来や経緯も知らないが、事の起こりが不吉だったように、波乱を引き連れて物語が進んでゆく。ゴーゴリが名前の由来を父から知らされのは、ずっと後のことである。

民族意識とアイデンティティ

人は意識の差こそあれ、アイデンティティを探し求めて生きる。特に自身の置かれた立場に不安を感じるとき、揺らいでいるとき、自分が何者であるかを問い、自分を何らかの方法で定義付けようとする。

ゴーゴリにとっては、まず、インド系移民の二世という事情があった。アメリカで生まれ、アメリカで育ったけれども、アメリカ人とは言い切れないどこかで異なるものがあった。本人はハンバーガーをほおばり、ウォークマンでロックをききたいアメリカの若者でありたいと思うが、父母はそう思っていない。父母にとっては祖国インドの誇りが強い。次に生まれる妹も含めて、父母の世代と子どもの世代とで、インド社会に重心を置くのか、それともアメリカ社会なのか、はっきりと一線が画される。インドに重心を置いて現実のアメリカ社会に溶け込めずに苦しむ母、アシマと、全てアメリカに染まりたいのに、出自は覆せない葛藤に苦しむ息子ゴーゴリ。それぞれが苦しみ、また、家族の中でも価値観の相違が葛藤を引き起こす。

また、ゴーゴリの場合、アイデンティティには、名前も大きく関わっていた。名前に苦しむ、名前とアイデンティティが関連するという人はそう、多くないことかもしれない。

けれども、こと、ゴーゴリの場合、ずっと悩んでいた。嫌っていた。 大学進学時を機に、彼は改名を申請する。アメリカで珍しくないというように、申請は無事、認められるが、ところが、あれほど渇望していた新しい名前にもなじめない。しっくりこない。何より、周囲がいぶかしぐ。それはそうで、人は他者に認められての存在である。自分一人で名前を変えた、新しく生まれ変わったと叫んでみても、周囲はそう思っていない。簡単には了解を得られない。呪縛から解き放たれようと思ってしたことが、かえって深みにはまってしまったともいえよう。

そうした困難を引き連れながら、物語は進んでゆくのだが、とにかく、丁寧な文章である。細やかな筆致である。目に見える情景を、心の動きを精緻に描き上げている。作者が高所から見下ろして、登場人物達を描いているのではなく、主人公らが自ら語ることで物語を進めてゆく。前半は母アシマの視点で、中盤以降はゴーゴリの視点で、また、婚約者の目で、と、それぞれの人物らの視線で語られている。静かに、淡々と。作者の手にかかると、何でもない日々の生活が、目に見えるものが、これほどに情感豊かなものであるかと思わされる。心のひだを掬い上げる、というのはこういうことをいうのだろう。

家族におこる事件、葛藤、不安、ゴーゴリの迷いを描いて、ややもすれば重苦しくなりがちであるが、そうしたトーンの中でも、ゴーゴリが思春期を迎え、女性を意識し、成長してゆく過程で幾度かの女性との関係を結ぶようになる箇所の描写がいい。大きな分量を割いて記されるゴーゴリと女性らの関係が、この物語の中でもひときわ明るく、みずみずしく輝いている。そこでは名前がどうあれ、恋の歓びに満ちている。ここでも作者の才能で、恋のときめきが読者の心を満たしてくれる。そしてまた、恋が破局に終わるほろ苦さも、やはり静かに丹念に描きあげられる。

それぞれのアイデンティティ

悲しい事件も起こるが、悲劇を描いているものではない。困難を通り越しながら、家族のそれぞれが足下を固めてゆく。足元をじっくりと見つめる。自らの立場を思うようになる。アイデンティティの獲得、というほど単純な主題ではないが、次第に明るくなってゆく。インドからの移民家族が、父母の世代は父母の世代で、また、子ども達の世代は子ども達の世代で、避けられないアイデンティティの困難さと静かに葛藤しながらも、家族の中でも異なる価値観を受け入れつつ、それぞれの立場でアメリカに住む、アメリカ人として生を築いてゆくところに本書の主題があったろう。

僕も本書を読みながらずっと、自分のアイデンティティを考えていた。僕も同様に、きこえないことが他者と異なることを意識せざるを得ない。祖国にいる限り、日本人ほど民族や国籍を考えることない国はないと思うが、同じ日本人、同じ人間でいても、聴者がそこで言葉をやりとりしているごく日常的な光景の中で、僕は、人の口がぱくぱくと動いているのを見るだけで、自分が異邦人のように感じられるのだ。他人からみれば透明人間かもしれない。その変えられない環境に自分をどう位置づけるのか、大小の何かが事件が起きるごとに、心が揺れるごとに、考えるし、これからもそうだろう。アシマやゴーゴリの心の揺れというものに強く共感できた。

また、作者は僕とも同年(1967年)生まれというのにも親しみを覚える。作者は本書の中の登場人物それぞれに自身の多くを投影したのだろう。ゴーゴリを1968年生まれとしていること、作者も同様にベンガル人でアメリカで育ったこと、子どもを生んだ母の立場であること・・・等々。ちなみにこの本の裏扉には作者の顔写真が掲載されているのだが、これが実に美しい女性である。後半、同じくベンガル人で幼なじみのモウシュミが現れて以降、作者のこの顔立ちをモウシュミに重ねずには読めない 。

唯一、本書で難を挙げるとしたら、エリート臭さが強いことだろうか。ボストンで物語が始まるように、登場人物は全て立派な学歴を有し、素晴らしい仕事を持つ身ばかりである。大学教授、大学院、弁護士・・・と、知的層で固められている。貧富の差の激しいアメリカ社会で、そのようなコミュニティに身をおけるのは少数だと思うのだが、これも移民ゆえのコンプレックスがあったのだろうか。

満足度:★★★★

この家族の歴史は偶然がつながってできているように思える節も多々ある。予測がつかず、意図したものではなく、一つの偶発事が次の偶発事を生んでいる。そもそもの始まりは父の列車事故だった。しばらくは父を麻痺させた事故が、逆に父を動かす精神力になって、地球の反対側で新しい生活を求めさせた。すると曾祖母の選んだ名前が、カルカッタからケンブリッジに郵送される途中で消えた。だからゴーゴリという名前がついて、長年、彼という人間を決定し、苦しめた。だが、まったく違う自分を作り上げ、不似合いな名前と絶縁しようとしても、それは不可能なことだった。

・・・

何はともあれ、そういうことが重なって、ゴーゴリという人間ができあがり、どんな人間かを決められた。予習しておけるようなものではない。あとになって振り返り、一生かかって見つめ直し、何だったのかわかろうとするしかない。これでよかったのかと思うようなこと、まるで話にならないようなことがしぶとく生き残って最終結果になってしまう。


 

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