茗荷谷の猫 かけがえのない真摯な生

木内 昇(文春文庫)

2013/06/27読了、2013/11/11メモ

名も無き市井の人の物語

茗荷谷の猫

茗荷谷の猫
著者:木内昇
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初めて読んだ木内さんの作品。きっと肩に背負うこと数年、がっぷり四つに組んで作り上げたのだろう長編「漂砂のうたう」に対して、こちらは9編からなる短編集。それぞれの起伏が面白い。

この著者の特性か、前に紹介した新聞の所感記事が「わからないから面白い」というタイトルであるとおり、あえて読者に気を遣い分かりやすさを提示するようなところはなく、本作にも中に分かりにくいものもある。それでも短編ゆえに、名もなき人々が真摯に向き合った人生を描く様の主旨が直接に伝わってくるところも多く、心の襞にしみこむ。

年前半の6月にして、今年の一本はこれだなと思えたほどに心の中に落ちてきた。

武士の身分を捨て、後に染井吉野と命名されて全国に広まることとなる新品種の掛け合わせに成功しながら、己の名を冠するでもなく、巨万の富を得るることも人々の注目を浴びることもなく、後世に名を残すことも欲しなかった植木職人が、頑なに守ろうとしていたもの ──。

あるいはその努力や執念が何の花も咲かせることなく一顧だにされなかった者達の生。9編の多くは(もしくは全ては)望むものを得られなかった人生を描いており、けれども、それが不本意であるとか不完全であるとか後悔とかいうのでは決してなく、その葛藤や懊悩の中に透き通る輝きを掬い上げて見せてくれて何とも感じさせる。

個人的には中盤以降が全ていい(最初は少しとっつきにくさを感じる)。せつなさの中に、なぜか一遍、爆笑ものの糸蚯蚓婦人(「隠れる」)、「でも僕、負けとうないのう」の庄助さん、赤貧の中にあって中也の詩が支える「ぽけっとの、深く」、遠き日の夢呼び起こす喪失感が胸をしめる「スペインタイルの家」。

時間が懊悩や悲しみを洗い流し

解説(春日武彦)が見事と言うほかなく素晴らしい。全文は別に書きとどめるとして、以下は解説の一文。

決して分厚い本ではないのに、書き綴られた世界の奥行きには溜め息すら出てくるではないか。


人生の複雑な味わいと心の閊え(つかえ)を長い時間軸に沿って描き切ったという意味で、本書はまさに小説らしい小説だと思わずにはいられない。

ささやかな人生というと、何だか安っぽい言葉になってしまうけれど、時代と社会とにかき消されてしまう、その愚直さに心をよせてしみじみと感じさせられる。

満足度:★★★★★

中学も出ないうちに戦災で孤児になり、突然、世間に放り出された。身寄りも金もない中で物乞いや靴磨きで食いつなぎ、そのあともただ生きていくためだけに這うようにして働いてきた。立ち止まる間もなく、遮二無二日々を送ってきた。

もちろんそこに後悔はないのだけれど。

あの家には、自分の選びそびれた人生がこっそりと眠っているように俊男は感じた。取り戻そうにも、呼び鈴を押すことすらもうできない。

スペインタイルの家


 

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