行人

夏目漱石(1956年刊岩波書店・漱石全集第11巻)

2005.9.19読了 10.1メモ

年に一冊は

岩波文庫

それなりに本は読んでいるのだが、今年、羊の本棚に収録できているのはわずかに一冊。それでも、以前にも触れたように、夏になると、ふと、漱石を読みたくなる。一年に一度は読み返したくなる。教員や学生のように夏休みはないから、暑さの少し弛み始めた9月に入って読み始めてみる。年をとるごとに面白さも分かるようになるのが、またいいところで、一気に読み終えた。久しぶりの読書らしい読書で、身体が求めていた。砂漠に水が染み込むように、一年ぶりの漱石の世界が、ひからびかけていた僕の身体を潤してくれた。

「虞美人草」をトレンディードラマより面白い物語と評したが、この「行人」も「虞美人草」に劣らず、男女の機微を描いて愉快である。本題は後半の兄さんの苦悩にあるのだが、漱石の多くの作品がそうであるように、新聞連載小説として、前半、随所に撒かれている、本論とは何ら関連のない挿話の方がずっと興味深く読める。

国民的作家、文豪漱石についての作家論には夥しいものがある。古今東西の研究者が永遠に論じ続ける作家だろう。年に一冊、読めるかどうかの僕が今更、ちんけなことを述べるのは、見苦しく、恥ずかしい。本棚の収録が進まないのは、その恥ずかしさに躊躇してしまうがゆえというのも、多分にある。

指導者不在

晩年に近い作品の「行人」は、例えば、これまでの本棚に収録した前中期作品とは趣を明らかに異にする。作中で、私をリードしてくれる、導いてくれる絶対的な指導者がいない。好んで書かれた師弟愛が、ここには見あたらない。弟子に対する師匠の人物がいない。「三四郎」における廣田先生、「野分」の白井道也先生のように典型的な師弟関係。あるいは、「坊つちやん」における山嵐、「虞美人草」における甲野さん、宗近君のように友人、同僚の延長ながらも、強い影響を与えてくれる人物。

彼らはいつも、明快に社会を見通していた。人の生き方、倫理や哲学を指南してくれた。

それが「行人」には登場しない。「行人」の自分(私)は、兄や父とも時に敵対する。教えを請う相手はいない。無条件に信じ、身を委ねられる相手がいない。友人も家族も、どこかに疑念をはらんでいる。

家族の中で深まる苦悩

博士として大学で教鞭を執る、誰よりも学の深い兄さんが深い苦悩に陥って混乱し、精神を病むがごとき状態にまで陥る。社会について、天下国家について論じることができる者が、実は、身近な妻の「愛」を得られているのかどうかについて、深く悩む。程度の差はあっても、案外、これは誰もに当てはまることだろう。

僕たちは、社会の中で、他人を、仕事や団体を通して、社会的立場の人間として見ている。家族の一員としてあるべき姿であるかかどうかということに思いをはせることはまずない。社会の中ではほとんど問われない。家族や親類間においてでさえ、社会的に成功しているかどうかが偏重される。

けれども、社会的に成功している、立派な人間が、必ずしも、家族を愛し、愛されているかどうかは定かでない。本書に限らず、漱石の作品は、見方によっては非常に女々しい、小さな世界を描いて鬱屈するようなものが少なくないのだが、それでも読み継がれるのは、社会的な、どこまでも第三者の関係としての他人以上に、家族の中での自分というもの、家族のあり方、これもまた倫理的に無視しえないものとして認識している点について深く考えさせられる物語だからでもあろう。

満足度:★★★★★

「二郎、何故肝心な夫の名を世間が忘れてパオロとフランチエスカ丈覺えてゐるのか。其譯を知つてるか」

「己は斯解釋する。人間の作つた夫婦といふ關係よりも、自然が醸した戀愛の方が、實際神聖だから、それで時を經るに從がつて、狹い社会の作つた窮屈な道德を脱ぎ棄てゝ、大きな自然の法則を嘆美する聲丈が、我々の耳を刺戟するやうに殘るのではなからうか。尤も其当時はみんな道德に加勢する。二人のやうな關係を不義だと云つて咎める。然しそれは其事情の起こつた瞬間を治める為の道義に驅られた云はゞ通り雨のやうなもので、あとへ残るのは何うしても靑天と白日、即ちパオロとフランチエスカさ。何うだ。左右は思はんかね」

「所が己は一時の勝利者にさへなれない。永久には無論敗北者だ」


 

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