坑夫

夏目漱石(1983年刊 新潮文庫)

2003.8.2読了 8.10メモ

カフカ少年と主人公

新潮文庫

村上春樹著『海辺のカフカ』に触発されて読んだ人も多いはず。カフカ少年が家を飛び出して四国に向かい、たどり着いた高松の甲村記念図書館で読んでいたのが「いくつか読んだことのないものが残っていたから、この機会に全部読んでしまおうと思って」いる漱石全集であり、『坑夫』であった。カフカ少年、弱冠15歳の恐るべき読書量。今年は僕も何故だか近代文学への回帰願望が強く、漱石を続けて読み返している。折しも世間はちょっとしたレトロブームだという。自分ではそんなつもりなど全くないつもりが、時代の影響というのは侮れないのかもしれない。

スローなペースであっても、読み止しの本のリストに今後も漱石を加えておきたい。『野分』の次は何にしようかと考えて、カフカ少年に刺激されて僕も高校時代に読んだはずの、でもすっかり忘れている本書を再読してみた。カフカ少年の後を追うように、今は『虞美人草』をやはり再読している。

自身も漱石が好きな春樹の手によって書かれているから、図書館に勤める大島さんとカフカ少年との会話は見事な『坑夫』評、漱石論となっている。カフカ少年は『坑夫』のあらすじを的確に説明できるし、カフカ少年の唯一頼れる存在である、大島さんもまた、うまく説明できないけれどこの小説に面白さを感じ惹かれているカフカ少年の言葉にできないでいる心の中の思いを引き出す、すぐれた司書としてのリード役を務めている。高度な読書談義である。

大島さんに「君は自分を主人公に重ねているわけかな?」と言わせている、著者自身が物語の中で明かしているように、『海辺のカフカ』は『坑夫』にヒントを得て書かれたもののはずである。カフカ少年や大島さんはもちろん、春樹自身のパーソナリティがそれぞれに色濃く投影されている。今回、『海辺のカフカ』からしばらく時間をおいて『坑夫』を読んでみると、「生涯片付かない不安の中を歩いて行く」人間を主人公にして描く春樹が漱石を好み、中でも『坑夫』が好きな理由というのが何となく分かる気がした。

漱石の作家トレーニング

この作品は、未知の青年の告白を基にして書かれた、漱石の作品中でも異色のものとされている。漱石が工夫したのは、主人公が後年、19歳のときの顛末を振り返る形で語らせている点にあり、その若い自分の独白も工夫がこらしてあって違和感がない。望んできいたのではなく、半ば無理に聞かされた話を、事実を、小説として面白みのあるものに仕立て上げてゆくことは、この時の漱石にとって、聞き書きの訓練、ひとつの文章トレーニングであったろうか。

家出をする前に徹底的に身体を鍛えた、そして意志も強靭なカフカ少年と比べると、『坑夫』の主人公は19歳といい年齢ではあるが、随分、頼りない。もっとも、カフカ少年が特異で、『坑夫』の主人公の方が普通だろう。「生涯片付かない不安の中を歩いて行くんだ」と威勢良く家出してきたつもりが、初めて出会う大人の世界に戸惑い、子どもである自分のボロばかりが露見してゆく。なんとも可笑しくてかわいらしい。

この作品は小説としての面白みには欠ける。『三四郎』のような恋のも悩みも青春の懊悩も描かれないし、『野分』のような筆者の強い意志が表明されるものでもない。ただ、人にきいた話の一部始終が描かれる。ただ歩いてゆく、主人公の回想と語りが続くばかりで読んでいて退屈な部分も少なくない。語りは同じでも、『猫』のような面白い日々の事件もユーモアや風刺もない。「纏まりのつかない事実を事実の儘に記す丈である。小説の様に拵へたものぢやないから、小説の様に面白くはない」と中で断っているくらいだ。ストーリー云々ではなく、人間観察に長けた漱石の作品中の随所に表れる描写、部分部分の描写が心をつかむ。

あえて主題のない物語であっても

ポン引きにつかまえられて声をかけられるまま、坑夫の世界へ足を踏み入れる。そこに集まっている人間は、二度と娑婆には帰らない、帰れない、皆、何がしかの理由をもっている者たちである。まっとうな人間の暮らす世界とははっきりと違う、得体の知れない坑夫の仕事という、穴の中の独特の世界を描くには、読者に読ませるための相当の力量が問われる。暗い穴の中を探る冒険のような面白さがあるわけではなく、読んでいて窮屈な小説である。読者ももぐらのような気持ちになる。想像力をめぐらすしかない。書き手も読み手も想像力の要求される小説である。人生が片付かない不安の中にあって、窮屈で暗い、先の見通せないものであることを示そうとしたのか。

それでも最後に主人公の出会う「安さん」によって救いが用意されている。「安さん」は、漱石自身がそうであるように、そして漱石の作品の凡てに必ず用意されているように、真直ぐで誠実な、どこまでも真剣な態度の人間である。ここにも瞬間に結ばれた師弟関係を通して、青年の人生に志を植え付けようとした部分が現れている。

満足度:★★★

自分は其の後色々な目に遭つて、幾度となく泣きたくなつた事はあるが、擦れ枯しの今日から見れば、大抵は泣くに当たらない事が多い。然し此の時頭の中にたまつた涙は、今が今でも、同じ羽目になれば、出かねまいと思ふ。苦しい、つらい、口惜しい、心細い涙は経験で消すことが出来る。難有涙もこぼさずに済む。たゞ堕落した自己が、依然として昔の自己であると他から認識された時の嬉し涙は死ぬ迄附いて廻るものに違ない。

一体人間は、自分を四角張った不変体の様に思ひ込み過ぎて困る様に思ふ。周囲の状況なんて事を眼中に置かないで、平押に他人を圧し附けたがる事が大分ある。他人なら理屈も立つが、自分で自分をきゆきゆ云ふ目に逢はせて嬉しがつてるのは聞えない様だ。さう一本調子にしやうとすると、立体世界を逃げて、平面国へでも行かなければならない始末が出来てくる。無暗に他人の不信とか不義とか変心とかを咎めて、万事万端向ふがわるい様にさわぎ立てるのは、みんな平面国に籍を置いて、活版に印刷した心を睨んで、旗を揚げる人達である。御嬢さん、坊つちやん、学者、世間見ず、御大名、にはこんなのが多くて、話が分り悪くつて、困るもんだ。


 

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