子どもの貧困──日本の不公平を考える

阿部 彩(2008年刊岩波新書)

2011/07/17読了、2011/07/22メモ

母子世帯に突出する子どもの貧困率

ちょうど先日、公表された国民生活基礎調査の集計結果で子どもの貧困率がまた悪化した(15.7%)という。ニュース前にふと興味あって手にした本。

自分も聴覚障害という、社会を生きてゆくとき、通常レベルの生活を送るのに諸々の困難を抱える身なので、ここ10年の格差論議をはじめとした本人(の努力)ではどうしようもない立場の弱者に思いを寄せることが強い。格差の拡大傾向にも胸を痛める。

中でも──色んな立場があるので比較してどれが、ということも本来、いいきれないが── 罪のない子どもが家庭の経済環境で貧困の連鎖を断ち切れないこと、また最近は0~2歳の乳幼児貧困率の増加ペースが早まっていることなどには強い憂慮を抱く。

本書でも強調されているが、日本が国際的にも貧困率の高い国であること(OECD諸国で2位)、子どもの貧困率も速いペースで上昇を続け、特に母子世帯の貧困率が突出して高いことなど、こうしたニュースに意識して接しないと深刻な問題であるのに社会の中では見え難い。政府にも国民にもその認識がないから政策課題としても認識されずに放置されてきた。

相対的貧困率

全国民の年間の可処分所得を少ない方から並べ、中央の金額(09年は224万円)の半分の水準(貧困線、09年は112万円)に満たない人の割合。主に国民の間の経済格差を示すが、資産は含まない。

貧相な貧困観、他者の貧困に鈍感な日本

本書後半では「相対的剥奪」(deprivation デプリべーション)という手法を用いて、社会の中でどの程度を貧困と考えるか、国民の合意基準がどの程度の位置にあるのか、社会全体の合意、市民の意識レベルに迫っている。

結果は、日本は先進諸国の中でも子どもの必需品に対する社会的支持率が大幅に低い。「おもちゃ」や「誕生日のお祝い」でさえ、「与えられた方が望ましいが、与えられなくてもしかたがない」「与えられなくてもよい」との回答が一般市民の過半を占めている。

この要因に、筆者は日本人の心理に「一億層中流」の神話が今なお根付いているなどと推測する。確かに日本人は「貧困」という状態を、ボロを着て食事にありつけないくらいの余程の状態と見ている、雨露がしのげて食事ができる、最低限以外を望むのは全て「ぜいたく」と見なしてしまうところがあるようにも思う。

筆者も例に挙げているが「クリスマスプレゼント」は実際にはほぼ全ての子どもが受けているにもかかわらず、「与えられなくてもしかたがない、与えられなくてもよい」が70%と考えている。誕生日と違って同時期に訪れる、日本中(世界中)の子どもが浮き立つ、子どもにとっても最大の楽しみであろうが、これに欠ける子どもがどのような思いをするか、学校での思いは、友達と関係がつくれるか、等々にも思いをはせると日本人の心は本当に貧相としかいいようがない。もう少し、余裕を持ちたいところだが、「ぜいたくは敵だ」が続いている。

昨年末のタイガーマスク現象も、本来、ランドセルはプレゼントの対象になるようなものではないはずで(=学用品、就学準備は最低限、子どもに保証されるもので法の対象でもある)、善意は受け取るとしても、ブームを美談として喜ぶ日本人の気質や、そもそも40年以上前の物語が繰り返されること自体、この40年間の政策に深刻な問題があるという反省があってよかったのではないか。

これはまたいつか別の機会にも述べてみたいけれど、今回の大震災でもそうだけれど、日本人は我慢強い、辛抱強いという美点を有している。とかく「耐えている」中での美談を喜びがちである。でも、ガマンや辛抱を他者にも当然に要求してしまう、人並みの要求でも「ぜいたく」として我慢を強いらせるところがあるように思う。

貧困の層にある者、また障害者や、その状態が当然で仕方がない、無言の内に耐えさせる社会でなく、人間としての尊厳が保たれる、積極的に幸せと思える、その環境が社会で保証される世の中であってほしい。

満足度:★★★★


 

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