きこえない人ときこえる人

クライニン,V.クライニナ,Z./広瀬信雄訳(1997年 新読書社)

2002.7.28読了 7.30メモ

明快なタイトル

原著はロシアの書物である。トルストイやドストエフスキーの名作ならともかく、聴覚障害を扱うこのようなマイナーな書物が訳されて発刊されるというのも珍しい。出版社も初めてきく名前だ。偶然に防府図書館で見つけたものだが、図書館という場所でなければ置かれることもなかったろう。

聴覚障害、ろう、手話をテーマに取り上げた国外の書物はもちろんこれまでにも数点、読んできているけれど、それらは全て英米あるいは仏国のものだった。日本に住んでいると、なじみの薄いロシアの著作というのに正直、奇妙な気持ちにさせられたが、意外に発行年月は新しく(1997年3月)、アマゾンで注文し取り寄せて読んだ。

何より僕が気に入ったのはこの著作名である。『きこえない人ときこえる人』(*)。分かりやすくていい。僕自身、この呼び方をよく使う。聴覚障害を扱う世界では、「ろう者」「聴者」と言うことが多いのだけれど、その言葉の定義としてやはり、僕自身は、「僕は今きこえない人間である」、そして、「周囲はきこえる人たちだ」という感覚で世界を捉えてしまう。やはりそれは、「きこえる」ことを前提として成り立っている世界の中で自分をきこえない存在として位置付けているからなのだろう(はっきり意識していなくても)。

*原著名はきこえない人

聴者の視点からの記述

本書はきこえない娘を持つクライニン夫妻の、聴者の視点で書かれたものである。

きこえる世界から述べたものとなっているから、聴覚という機能の素晴らしさが繰り返し強調されている。聴覚に損傷がある場合、言語の習得に多大なる苦労が必要になること、それゆえに人間としての成長や可能性、文化の理解を大きく拒んでしまうこととなる。そうした、ろうの持つ悲劇を記述し、しかしながら一方で、ろうという重い障害であっても克服できることを幾人かの例を挙げ、そしてろうの克服のためにはきこえない人のみならずきこえる人の側の配慮や努力が何よりも重要なのだということを説いている。

きこえる両親がきこえない子どもを育てる過程で味わった、思い知った当事者としての事実がベースになっているから、同感できることは多い。著者の述べる「きこえる」ことの素晴らしさと、そして「きこえない」ことの悲劇は全くそのとおりであろう。

「ろう――それは盲よりも深刻な身体障害である」(モンテーニュ)

「地上で一番のぜいたく、それは人と話をするぜいたく」(サンテグジュペリ)

著者によって引用されている言葉である。

言語と人間存在の関係

聴覚への障害が他の障害と決定的に違う点は、それが「言語」の獲得とコミュニケーションとに大きな困難をもたらす点においてである。言うまでもなく、ヒトと動物を分けているのは、人間が言語によって思考し、他者と(仲間と)コミュニケーションをはかり、文化を残してきたということである。極めて高度な言語体系があればこそ、人類は他の動物と違ってわずかな期間で飛躍的な進化を遂げてきた。「言語」こそが他の生きものの獲得できない、人間だけがもつ唯一の特権である。飛べる-飛べない、泳げる-泳げない、走れる-走れないの差異は他の動物にもあることだが、「きこえる」ことで──単に危険を察知するのみでなく──話し言葉を活用し、他者との関係を築いてゆけるのは人間だけだ。

こう考えると、「きこえない」こと、つまり、言語でコミュニケーションのとれない障害は、他の部位の障害と根本的に異なり、人間の存在そのものに大切な要素を欠いているということができる。乱暴な言い方をすれば、きこえない人間は、ヒトの部類に属することさえ危ぶまれる。そのことは、歴史上、聾唖者の置かれてきた地位、むごい扱いがはっきりと物語っている。

なぜ目の見えない人やあるいは知的に障害のある人々――つまり白痴行者――に対して、きこえない人に対するのとは違った関わりがあるのでしょうか?

という点には、いつも思うことで、強く共感させられる。つまり、「きこえない」と周囲に馬鹿にされやすい。話ができないことで、知能が劣っているものとみなされるためだ。盲者とろう者、あるいは車椅子に乗った人とろう者とを見るときの人の目には、はっきりとした違いがある。この点が他の障害と大きく異なる点で、「ろう」に対する偏見を強く感じる。この点についてはまた別に記したいと思う。

社会の有用な成員

少し悲劇的な側面が強調されているきらいはあるものの、著者が述べているように、本人の努力によってろうを克服した幾人かの生き方もいくつか紹介されている。

そして、何より、「きこえる人の積極的で親切な協力があってこそ、きこえない人々は社会の有用な成員となることができる」。

僕にとっても、他者と関わるときの困難さにしょっちゅう打ち負かされそうになりながら、「社会の有用な成員」になることを自覚できるように生きてゆくことが「きこえない」僕の課題である。

きこえないこと――それは何よりもまず、かなりの情報の喪失であり、それと結びついた孤独です。情報の不足と孤独の悲劇を避けることは、きこえない人へのあなた方やわれわれの態度、そして力相応の支援をしようとする私たち自身の姿勢に、多くの部分依存しているのです。

満足度:★★★


 

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