火車

ミステリー史の傑作を今

初めて読んだ宮部みゆきの作品。肋骨を痛めたことが分かってから、走ることもできない、出かけることもできない。こんな時こそ読書に没頭したいと思い、いつかまとまった時間があれば・・・と思い続けていた本書を念願かなって読むことができた。

ちょうど強盗犯に膝を撃ち抜かれて休職中の本間刑事が、公務としてではない事件に深く首を突っ込んでいったのと同様、肋骨を痛めた僕も身体を動かせないつらさから逃避するように本書にのめりこんでいった。

初版が1992年。バブルの崩壊が本格化した頃で、僕は仕事を始めて3年目だった。あの頃の独特の空気を今もはっきりと思い出すことができる。本書の作中人物が僕と同年代ということも親近感をもって読めた理由のひとつ。

推理小説において「ふくらみ」と「集結」という構造といえるような、本書の「ふくらみ」は見事で、複数の仕掛けのひとつひとつが実にうまくできている。その分、後半の「集結」はあっけないというか、もつれた糸が簡単にほぐれてゆくようで、ちょっと急ぎ過ぎでないか、と思えないでもない。既に充分な長編であるけれど、まだもっと、じっくり愉しませてくれてもよかった。

被害者の近親者であれば、やりきれない憎しみを感じるだろうけれど、一読者としては、追われる方にも同情してしまう。犯行計画とその実行は見事だった。あと一歩だった。そして、ラストで話が急展開するように、一度ならず失敗した計画であるけれど、再びの、三度のチャンスもあったのだ。今度は成功させてやりたかったと思う。

多重債務問題

圧巻は、多重債務、消費者信用の問題について溝口弁護士が本間刑事に力説するシーン。

消費者信用という産業は、あっという間に膨れ上がった、化け物のように成長した業界。この業界が歓迎されて成長してきたものでないことは認識されているところだが、日本経済の一角を占める所得を稼ぎ出す、もはや無視できない産業として日本経済を支える一つの業界。サラ金の頃からその悪弊は指摘されてきた。「構造上の問題、金利の問題、行政の不手際、教育の不足、・・・」それらがからみあって、抜本的な改革を打ち出せないまま負の側面が綿々と続いてきている。

溝口弁護士はそうした現状をひととおり説明した後で、一見、納得して話をきいている本間刑事に、けれども彼の心中を見透かして、こう指摘する。

「色んな問題があることはよく分かった。でも返せない金を借りて苦しむのは個人の問題じゃないか。まともな人間ではないから、何らかの欠点、欠陥、弱点があるから多重債務を抱えるんじゃないか。あなたはそう考えていることだろう」──と。

本間刑事ならずとも、たいていの人のもつ自己破産に対するイメージ。そうではないのだ、と溝口弁護士は説く。相手のドライバーだけを責めて交通事故が解決するわけでないのと同じように、多重債務や自己破産も、本人だけに責任があるわけではない。社会の仕組みに関わる問題なのだ。溝口弁護士はこれもじっくりと本間刑事にいいきかせる。

何も特別にだらしのない人間が自己破産に陥るわけではない。自己破産が露見して婚約者の前から姿を消した関根彰子も、「ただ幸せになりたかっただけ」だった。

かつて消費者金融問題を専門とする弁護士事務所で働いていたという作者の経験を活かした警笛。

今、10年前に比べると、その後の不況も手伝って自己破産の件数は驚異的に増えてきている。それは、10年前、本書の刊行当時、「自己破産」という言葉に多くの人がまだ後ろめたさも持っていた制度が、今では社会的に抵抗無く受け入れられるようになったということでもある。

僕自身も就職して数年は余裕が無かった(特殊な業種を除いては、新卒者の給与なんてそんなものだろうと思う)。情けない話だが、最初のうちは親から援助してもらっていたし、友人からもよく金を借りた(今思うと、若さゆえの無節操だ)。預金残高は無いのに、簡単にカードキャッシングができるのに僕も驚いた。僕の場合は、そのとき感じた無情な金利への怒りが、おかげで歯止めになってくれたけれども。

遅まきながら僕も、溝口弁護士の説明にこれまでの考え方を少しあらためさせられた。確かに、単なる浪費やギャンブルなどにつぎ込んだ遊興費が原因の自己破産者が少なくないだろう。今、芸能人が自己破産したり、銀行が破綻するのは、やっぱり見栄をはりたかっただけの個人の問題や、経営の問題が大きいはずで、そうしたものまで全て一律に救うことを許せる感情にはなれない。

それでも、全てが、決して間違って転落してしまった地獄ではない。誰もがやむにやまれぬ事情で踏み入れてしまう可能性のある泥沼。例えば、ケガや病気で仕事ができなくなったら、職を失ったら・・・。青木雄二氏の『ナニワ金融道』も思い出させせられた。

満足度:★★★★★

宮部みゆき(1992年刊 双葉社)

2003.6.29読了 6.30メモ

双葉社

 

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