世界のすべての七月 2

ティム・オブライエン/村上春樹訳(2004年刊 文藝春秋)

2004.8.12読了 8.15メモ

男女の機微

世界のすべての七月 (単行本)
世界のすべての七月

自己の再定義を再びの異性関係に求めようとしている登場人物達の、男女の機微が、また、男と女の、愛のベクトルとでもいうべき描かれ方が面白い。主人公たちのうち、男の方が一概に純情である。一途に女を思い続けている。デイヴィッドはかつての妻に対して、長い歳月を経てもなお「人生には生きるだけの価値がある」とマーラを求め続け、よりを戻したがっている。心臓にバイパスを抱えるマーヴは、スプークに対して大学時代から今現在に至ってもなお望みを捨て去ることができず、「君のことが本当に好きなんだ」と打ち明ける。駆け落ちの約束をすっぽかされ、あげくに親友に寝返られたビリーさえも、憎しみと同時に、なおドロシーに愛を抱き続けている。純情というより、しつこい。吹っ切れていない。

対して、女の方は、さばけている。男からの愛を受けて、女たちも気持ちは傾いているのだが、簡単には落ちない。最後のところでひょいとかわす、うっちゃるようでもある。先に触れた、不倫に走っているというのは、すべて女の側からのものであるし、すべからく主導権は女の側が握っている。女は古い男をさっさと捨て去って、新しい恋に向かう。男の方が過去の愛をひきずり、しがみつく。このあたり、年齢にかかわらず、そんなものだな、とうなずけるところが、僕も同じ男として少し情けなくもあるし、哀しくもある。

挫折や傷を抱えつつもユーモラスな人物たち

この小説の良いところは、主人公たちが皆、挫折や傷を抱えていても、それを受け入れているところである。受け入れている、といっても、成功物語ではないと最初に述べたように、挫折を乗り越えた、逆境を克服した・・・、という物語でもない。デイヴィッドが片脚を失うこととなったヴェトナム戦争の記憶から今も逃れられないように、今も皆、過去をひきずっている。解決しない過去を抱えている。いや、過去は解決しようがないものであり、これからも、ずっと自身の傷と付き合ってゆかねばならない、そういう覚悟ができている。そこがいい。

宴が終盤にさしかかる頃、家宅侵入──かつての不倫相手先への──で教区を取り上げられた女牧師ポーレットが「真実」(トゥルース)なるゲームを提案する。一人一人、自分の人生で起きたおぞましい出来事の話を告白してゆくというものだ。これも同窓会だから、ルームメート同士だからこそできる、挫折や傷の告白会、罪の懺悔会である。ことさらに仲間の絆を描いた青春物語ではないけれど、行き詰まった、塞がれた日常生活でもがいているとき、同窓会という特殊な場だから弱みを出し合える、というのは確かにあると思う。

古傷を見つめ、さらけ出してしまうことで、背負っている傷や痛みはこの先も続くけれど、「それなりに付き合ってゆかなくちゃいけないよな」という、自然な姿勢も見えてくる。それまで縛られていた強迫観念からも肩の力が抜けてゆく。片脚を失っただけでなく、戦場での強烈なトラウマに今も苦しんでいるデイヴィッドと、表向きは幸せこの上ない身だけれども、その内実は、乳癌を抱え、夫からの愛を得られなくなったドロシーの、最もシリアスな悩みを抱えた2人でさえも、人工の脚と人工の乳房を見せ合いながら吹っ切れてゆく。「まあ、こういう運命だって決して悪い人生じゃないよね」という、せつない中にも笑える余裕が生まれる。悲しみに染まりきらないユーモアが出てくる。

せつなくてユーモラス、あるいはユーモラスでいてせつない。チャップリンの悲劇のようでもある。主人公たちの53歳という年齢がそうさせるのだろうか? 裏切られ、職を失い、罪を負い、病を抱え・・・、それでも明るい登場人物たち。この小説の登場人物達がそれぞれに結構シリアスな人生を抱えていながらも、暗さや悲痛さに沈まないのは、登場人物たちのこの明るさゆえである。同窓会場で繰り広げられる会話は、深刻な話題の中にも、アメリカという国ならではのユーモアも忘れられずに登場する。不運や不幸も笑いの種にしてしまう洒脱で軽妙な会話が読んでいて楽しい。

例えば、ジャンとエイミー。冒頭、ダンスシーンの最初に登場した離婚経験者のこの2人は、最も強く男を求めているのに、最後までかなわない。他のルームメートたちが男女、うまい具合にペアになってゆくのに対し、最後まで2人だけ取り残される。この物語の語り手であるかのように、遠巻きに見物しながら解説に終始している。女同士の遠慮ない軽妙な語り口もあって、この小説の明るさを作り出している。非常にユーモラスに描かれている。物語を牽引してゆく役割設定が絶妙な配分と思えてくる。

愛すべき人間の物語

最初に書いたように、読んで心が揺さぶられるとかいう本ではない。教訓めいたことが書かれているわけでもない。それでも、人が過去を背負って、過去を抱えて生きる姿を、同窓会という非常に効果的な舞台を用意して、繰り広げられるストーリーにくいこまれる内容である。作中人物に限りない原著者の愛情が注がれていて、人間のいとおしさが伝わってくる。読み物として、純に楽しめる。僕はまだ37歳であるけれど、53歳の主人公たちの心情に非常に共感しながら読むことができた。訳者があとがきで心配しているように、決して若い読者に受け入れられない、ということはないと思う。

このところ、ほとんど本を読めずにいたが、今回、久しぶりの読書に満足できた。年々、減って行く読書時間、どうせなら、もっとためになる本を読むべきとも思えるのだが、大いに気に入ってしまって、今またじっくりと再読中である。するとまた、ここまで書いてきたこととはまた別の視点が生じるし、新たな示唆も与えられる。謎めいたところは、とくと考え込んでもしまう。

おそらく本書は、文学的作品として、そう評価されるものでもないだろう。人に勧めるのに適している、という類のものでもないと思う。訳者もあとがきで原著者のことを何度も「下手」な書き手だと繰り返している。でも、下手っぴいだけれども、訳者にとっては「気になってしょうがない」小説家の一人なのだという。実に11ページの量に及ぶあとがきからも、本書に注がれている訳者の愛情の大きいことが分かる。それらを実感できる本である。

満足度:★★★★★

「クレイジーって、何が?」

「うん、どう言えばいいのか、ただこうして年をとるってことが」とエイミーは言った。「あなたと私、夢を見てきた私たちの世代ぜんたい。かつては、その昔は、ジュネーブ協定だとか、トンキンワン決議だとか、そういうことについて私たちは語っていた。それが今では、話すことといえば脂肪吸引だとか、元の亭主だとか、そんなことばかり。六十歳以上は信用するな、とかさ」、エイミーは首を振った。しばらくのあいだ彼女は空っぽになったグラスでテーブルをとんとんと叩いていた。「いちばん切ないのが何かわかる? とことん最悪に切ないのはいったい何か? 私たちの両親──あなたの両親、私の両親、みんなの両親──時代遅れのとんかち頭の連中、なーんにもきれいさっぱりわかってないやつら。たとえ母音を教えてやっても、ハノイHanoiと正確につづれないような連中。でも連中にも、ひとつだけわかっていたことがあった。それはね、私たちが結局はどうなるかっていうことよ。なんのかんの言ったところで、私たちが行き着く先は、あいつらにはしっかり見えていたのよ」

「で、どこに行き着いたわけ?」とジャンは言った。

「ここよ」

「どこですって?」

「まさにこの場所よ」


 

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