椅子がこわい

夏樹静子(2000年刊 文春文庫)

2006/11/08読了、2007/02/24メモ

不治の恐怖

坐骨神経痛を2年前に発症し、気付いたのが数ヶ月後。それから、ネットに何か救いになる情報はないかと探し回った(今も続いている)。

ネットには様々な情報があふれている。整形外科、鍼治療、マッサージ、指圧、整体、カイロプラクティック、十字式、・・・色んな治療法。僕も一通り試してみた。最初に症状の出た左脚は重症だったが、きれいに完治した。ところが、不思議なことに次には右脚に移って、こちらが軽症ながらもしつこく今に至っている。

そんなときに外科的な対処でなく、心理療法、心身症といった、心療内科的な治療の道があるらしいことを知って、たどりついたのが本書である。

単行本初版は1997年の10年前。当時から話題になっていたことは、はっきり覚えている。新聞各紙の書評欄でも大きく取り上げられていた。女流ミステリー作家の第一人者にして奇抜なタイトル。「私の腰痛放浪記」というサブタイトルを知らずにいた当時の僕は、てっきり「痔」の方面のものとばかり思っていた。笑えるエッセイか何かなんだろうと思っていたが、原因不明の腰痛で死ぬか自殺か以外に考えたことのないほどのすさまじい闘病記である。

著者ほどの壮絶さはないが、痛みに苦しんでいる身には冒頭から共感できることの多い内容である。解決(快方)の目処のない痛みに向き合っている人は皆、同じだろう。西洋医学、東洋医学、得体の知れない薬、民間療法、霊的、宗教的な類・・・、

「未知のものほど期待が膨らんだ」

というように、きっと誰しもに共通するところで、ありとあらゆるものを試したくなる。

痛みから学べるもの

そして、著者が最後にたどりついたのが「心の問題で起こる病」という考え。

これも著者が最初、反発したように、安易に「心の問題」、「病は気から」といわれても納得しがたい。それで全てが解決するなら医者は要らない、医療の進歩も必要ない。

けれども、一通りのものを試した後では、「それもあるだろうな」という気持ちが強くなる。まず第一に、「痛い」とき、痛みにばかり目を向けているから、ますますそれが強く意識されて、考え方も心も凝り固まってしまう。それから、世の中には科学だけでは説明できない領域も大きい。人が生きている、ということ自体、不思議な現象(で、僥倖なこと)に思えてくると、痛みや病はまだ小さなレベルのものともいえる。今風にいえば「鈍感」なくらいに気にしないのがいい。

同時に、痛みは何かを気付かせてくれる身体からのサインだと耳を澄ませるてみる。原因は結構、遠くにあって、普段の生活習慣はもちろん、生き方とか、心の持ち方、生きる姿勢・・・ということを省みることができれば、(仮に痛みが消えなくても)それはそれで、自分にいいチャンスになりうると思う。

満足度:★★★★

痛みのある自分──病人として排除 ではなく、共に自分の姿であることに気づき、症状を受け入れる

人間には、自分が知っていると思うことの、何百倍も、何万倍も、知らないことのほうが多いのだ。

だから、たとえ最悪の不幸と感じられるようなことに遭遇しても、実はその時自分の前には幸福の扉が開かれつつあるのかもしれない。

そしてどんな時も、そういう形の希望を抱くことは、そのこと自体が苦しみからの解放に手をかしてくれるだろう──と。


 

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