彼岸過迄

夏目漱石(1956年刊岩波書店・漱石全集第10巻)

2006.04.22読了 2006.04.23メモ

格差社会

「彼岸過迄」
1990年刊岩波文庫

近頃、格差論議がかまびすしい。何をもって「格差」ととらえるのか、議論の出発点としての定義は一定でなければならないが、かなり自由にとらえられる言葉であるだけに、集約が難しい。誰しも思うところはあるゆえに、一気に火がついた形の広がりを見せている。

本作の題材に「格差」があるわけではないが、読んでいて、思いが及んだ。漱石の作品はたいてい、当時の知識人を描いている。学問も教養もある人物、当時、まだ少数だったはずの大学に在学中か、卒業した者のうちでも、相当に立派な職業に就く人物の悩みがモチーフとなっている。彼らはごく一部の階級であり、一方では、今の流行でいうところの「下層」の人々らが多かった。厳然とした区別があった。

本作の冒頭もそうであるが、作品には至極、当然のように、必ず、「下女」が登場する。下宿する学生の立場でも、下女が身の回りの世話を事細かにしてくれることが漱石の作品では一貫して読み取れる。これまでは時代の違うことゆえ、意識せずに読んでいた、冒頭では気にしなかったことが、物語の終盤、須永の悩みの告白の最中に登場する小間使、作(さく)との会話で、ふと、昨今の議論を想起させられた。

「下女」、「下婢」、「小間使」、「召使」・・・、多彩な呼び名も今では、決してきくことのない、階級をストレートに表す言葉である。

従妹にあたる千代子を子どもの頃に両家の親が結婚を約束させていた、千代子にもまた「あたし行って上げましょうか」と言わせしめる、自身、立派な女だと認めている千代子を、それでいて、嫁にもらうもらわないで女々しく悩んでいる男、というのがこの物語の(乱暴な)あらすじなのであるが、下女らには結婚の自由や選択の余地はなかった。齢十九にして、「御前でも色々物を考えることがあるかね」と問われ、「私なんぞ別に何も考えるほどのことが御座いません」と答えるしかない、主人公らとはまるで生きる世界の違う、自らの意思も主体性もない階級であった。

漱石の生きた明治の時代から百年もせぬうちに、ほんの数十年の間で、二度の大戦を経て、社会のありようが大きく変わった。こうした階級差が、敗戦による民主化の過程で、自然に、いつの間に消えたことは、当然、称えられるべき産物(成果?)といっていいのだろう。国全体が、日本の経済が、国民所得が、一様に一気に向上したなかで。ただ、それがあまりにも急な、短期間であったのと、ベクトルの全く逆方向の「平等主義」が度を越えて、「悪しき」平等主義、「何でも」平等主義にまで進んでいった、その反動が今、出てきているのかもしれない。

今の世に限らず、格差は絶対にある。「私の履歴書」に登場する、功成り名を成し遂げた政治家、経済人、財界人、学者・・・というのはたいてい、親の代、代々からの名家の出である。そんな上層部に限らず、一般市民(と思っているところ)のレベルでも、親の教育水準や職業が子どもに引き継がれる。子どもは似たような相手と結婚し、さらにその子どもも・・・、と、いわれてみれば格差は確実に「再生産」されている。差が拡大し続けている。

世界の他国と比べてどうこう、という統計の数値も議論の材料として出ることが多い。ただ、普通に考えるだけでは、まだ、日本はみんな仲良く、平等に、の国であるように思える。 階級社会が当然として残るイギリス他ヨーロッパの国々や、夢をつかむために下層からのし上がる、はい上がるチャンスに努力するアメリカ。最近では、暴動、デモがニュースになる中国やタイやフィリピンや・・・のように、一国でも、都市に住む一握りの富裕層と、地方に住む圧倒的大多数の貧困層とに分かれる国の方が世界には多そうである。 それらに比べればまだ、日本は平和であると思うが、成功者を素直に賞賛できない、足並みそろえて横並びでいたがるのが良くも悪くも日本人の国民性であろうから、格差論議も続くのだろう。

後期三部作

話が全く本作とは別の方に振れたが、前回、『行人』を読んで面白かったから、ひとつ前に戻って、後期三部作に挑戦してみようとしたものである。ただ、九月の、まさに彼岸過ぎに読み始めたつもりが、晩秋に中断して、読了に半年以上、かかってしまった。前半は相当に退屈であるが、後半、「須永の話」の章から俄然と面白くなる。

「世の中と接触する度に内へとぐろを巻き込む性質」の主人公の悩み、苦しみ、葛藤の長い告白(独白)と、それを傍らで眺める、慰める、物語の語り手となる、(多少なりとも)健全な精神を有する人物とのバランスの中で、どこでおりあいを見つけるか、生きる道を探るか、という手法が、『行人』や『心』につながっているのだな、ということがよく分かる。

次は、日本人に最も読まれてきた、『心』をまた──

満足度:★★★★

僕も男だから是から先いつ何んな女を的に劇烈な戀に陥らないとも限らない。然し僕は斷言する。若し其戀と同じ度合の劇烈な競争を敢てしなければ思ふ人が手に入らないなら、僕は何んな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐ろにして戀人を見棄てゝ仕舞ふ積でゐる。男らしくないとも、勇氣に乏しいとも、意思が薄弱だとも、他から評したら何うにでも評されるだらう。けれども夫程切ない競争をしなければ吾有に出來にくい程、何方へ動いても好い女なら、夫程切ない競争に價しない女だとしか僕には認められないのである。僕には自分に靡かない女を無理に抱く喜こびよりは、相手の戀を自由の野に放つて遣つた時の男らしい気分で、わが失戀の瘡痕を淋しく見詰めてゐる方が、何の位良心に對して滿足が多いか分からないのである。


 

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