変身

フランツ・カフカ/丘沢静也訳(2007年刊 光文社古典新訳文庫)

2008/08/02 読了、2008/08/03メモ


1980年新潮文庫

昨年、チェコを旅行した際、前後にチェコの歴史や文化や・・・を学習して、そして実際にプラハの街並みを歩き、大いに親近感を抱いたカフカの再読。

カフカの代表作にして不条理文学の傑作を光文社古典新訳文庫シリーズで(右画像は旧い新潮文庫版)。

「変身」物語というと、先日、記した中島敦の「山月記」もそう。自分が虫になり、あるいは虎になった、その背景は・・・。

「山月記」が李徴の述懐で物語の主題をストレートに理解しやすいのに対し、「変身」はさっぱり分からない。カフカが一体何を伝えたかったのか、あらゆる解釈の成り立つところがまあ文学ではある。

「山月記」が李徴の「告悔」とでもいえるような「独演」的な進行であるのに対し、「変身」の方は主人公グレーゴル・ザムザばかりでなく、その家族にもより公平に語り手の視線が注がれている。

姿を変えた我が身を決して現そうとしなかった李徴と、目の当たりにしたザムザ一家。そこに当人の主張を軸にした展開と、周囲の戸惑いもからめているのか、の差異が表れるのは当然の帰結であった。

単純に読めば、救われることのない、家族からも見放されてゆく「変身」のグレーゴルの惨めさが際立つ。「山月記」は涙を誘うからこそ、そこに一定のカタルシスを残すけれども、「変身」はそれさえない突き放した非情な終末が何とも空虚に響く。

「山月記」で僕も打ち明けた。障害を負った身の心理。あるいは人が老い、痴呆になり・・・といった状況で家族の心中事件が絶えないように、愛とか優しさとかいう綺麗事だけでは解決できない問題が生じてしまう現実。厄介者を抱えてしまった、抱えさせてしまった・・・。

ドイツ系ユダヤ人として、ユダヤ人街の重い歴史を持つプラハで生涯を過ごしたカフカ。あっけないほどに淡々とした描写の中に、自らのアイデンティティに苦悩したに違いないカフカが、「変身」という題目にあって変われない身を、突き破れないものを、示したかったのだろうか。

「出てってもらおう」と、妹が叫んだ。「それしか方法がないよ、お父さん。あれがグレーゴルだって思うのを、やめるだけでいいんじゃないかな。そんなふうに思ってたことが、そもそも不幸のはじまりなんだ。でもどうして、あれがグレーゴルなの? グレーゴルだったら、とっくの昔に、人間とこんなケダモノがいっしょに暮らすなんてムリだ、ってわかってたでしょ。自分から家を出ていってたでしょ。お兄さんがいなくても、わたしたち、これからも生きていけるし、お兄さんの思い出は大切にできるでしょ。ところがこのケダモノは・・・」

満足度:★★★


 

  Related Entries


Message

メールアドレスが公開されることはありません。