虞美人草

夏目漱石(1956年刊 岩波書店・漱石全集第5巻)

2003.9.8読了 9.18メモ

教養小説

岩波書店

本論とは無関係な、漱石自身の世評、社会論に割かれた描写が実に多い。無駄な部分といってしまえばそれまだが、それが許されるのが漱石の小説。当時も今も、著者のあふれる教養が小説の本筋とは別に、時に本筋以上に現れるのを読者も楽しみにしている。それが漱石の作品の愉しみ方として認められている。今、こうした無駄な部分が小説に現れようものなら、読者からすぐに「不要」、「蛇足」と批判されるところだろう。現代の読者はせっかちだ。加えて今、教養をふりかざそうものなら、嫌味ととられてしまう。

明治末期の頃には、それが無駄とは意識されない、ゆったりと流れる時間があったはずだ。いわゆる日本文学史上、自然主義文学に反する余裕派、低徊趣味。

恋のかけひき

一体、漱石を好む女性というのはそう多くないのではないかと思える。意識的な「男尊女卑」というものはなくても、小説の中での女性の位置は、大体において低い。当時の社会がそうだといえばやむを得ないのだが、女性の側から読んでいて面白くないのではないだろうかと思える。

もちろん、漱石は、そういった社会に抗う意図もあったか、『草枕』における那美さんや『三四郎』における美禰子のような進歩的な女性を多く描いている。「強い」女性が意外にも多い。今回の『虞美人草』においても、そうした女性に通じる藤尾を登場させているのだが、それでも、一般に小説に現れる女性の地位は低い。

この『虞美人草』においても、3人の女性の結婚をめぐるストーリーにそれは現れている。

女性が自由意思で結婚相手を選べない。狭い世界に生きており、結婚相手を自分が決める、という選択肢がはなから用意されていない。親同士の話で結婚が約束されていることや、兄が妹の結婚相手に自分の友人を勧め、それが本人の意思とも無関係に話が簡単に進められたりすることなど、自由恋愛が当然の現代からすると隔世の感のする内容である。一方で、けれども日本にはそうした慣習の根強かったことを若い世代であっても知っている。当時ならば充分あっただろう物語として、百年を経た今、読んでも違和感は全くない。

その制約ゆえか、複数の男女が結婚をめぐっての心理戦を行う。恋愛と結婚とを別のものとして分ける考えが稀薄だったろう時代であるから、余計に女性にとっては結婚が自分の人生にとって、唯一最大のイベントとしての重みがあったろう。それでいて自分がその過程に積極的に加わることができない。できないから余計に気になる。そこに、熾烈な心理戦の行われているのが本書のストーリーとなっている。恋のかけひきや男女間の打算といったものは、いつの時代にもあることで、今後もそう変わることはないだろうけれど、自由に相手を選べない当時であったからこそ、余計に強かったろう。

トレンディードラマより面白い物語

小説には3組の男女が現れる。「組」というには及んでいないが、若い3人の男と3人の女が、3組になろうとしてせめぎ合っている。今、トレンディードラマにしても充分に興味深い面白さがある。

窮屈な穴の中を進んでゆく、ストーリー性に欠ける『坑夫』を読んだ後だけに、恋の物語としての男女の機微、登場人物の多彩さが愉快に読めた(もっとも、作品の書かれた順序はこの逆で、『虞美人草』が空想的で芝居がかり、作り物的な内容となっている反省もあってか、『坑夫』はその反動として書かれたのだとされている)。また、中後期の漱石の作品に色濃く影を落とすようになる「罪の意識」が最後、小野さんに少し現れる以外、この作品には大きく現れていないことも、読む方としては純粋に娯楽小説として浸ることができる。教職を投げ打ち、文筆業で生きてゆく決心をして朝日新聞に入社した漱石の最初の連載小説。当然、気負いも手伝って絢爛豪華な筆致となっている。読み進めてゆくうち、漱石作品の中でも最高に面白い作品とさえ思えてくる。

登場人物の性格設定が面白い。それぞれの個性がいかにも小説的ではっきりしている。甲野さん、宗近君、孤堂先生、糸子に連なる昔気質の性格をよしとする側と、藤尾、藤尾の母、小野さんの、新しきを求めているようで、実は軽薄な側。登場人物の色分けがはっきりしているから、安心して読める。善悪二手に分かれているのが『坊つちやん』を思わせる。『坊つちやん』ほど、はっきりと白黒が分かれているわけではない、悪役と味方に分かれているわけではないけれど、どこかしら通じるものがある。『坊つちやん』の山嵐に少し似ているような、男らしくさばけた宗近君は、だからこそ、この作品の中で唯一、「君」付けされたのだろうと思えてくる。あるいは、甲野さんに説得されて藤尾を潔くあきらめる男らしさに漱石も敬意を示そうとしたのか。

宗近君と彼の妹、糸子は恋のままならないことに涙を流すが、小野さんや藤尾、藤尾の母は流さない。新式の男と女を目指そうとしている彼らは、涙のない、情のない世界に住んでいる。恋というものが、本人の意思だけではどうしようもない、ままならぬものであることを受け入れられず、策略で何とかできるものと考えている。計算の世界に生きている。

ラスト近く、「僕は真面目になった。君も真面目になれ」と宗近君は小野さんに繰り返す。宗近君のいうとおり、甲野さんも糸子も真面目になった。見栄、虚栄の世界で生きる藤尾、母、小野さんに対して、3人は胸のすく真っ直ぐさを有している。漱石の作品を──とりわけ初期の──読んで気持ちのよい理由は、ここにある。

満足度:★★★★★

紅を彌生に包む晝酣なるに、春を抽んずる紫の濃き一點を、天地の眠れるなかに、鮮やかに滴たらしたるが如き女である。夢の世を夢よりも艶に眺めしむる黒髪を、乱るるなと疊める鬢の上には、玉虫貝を冴々と菫に刻んで、細き金脚にはつしと打ち込んでゐる。静かなる晝の、遠き世に心を奪ひ去らんとするを、黒き眸のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴のひろがりに、一瞬の短かきを偸んで、疾風の威を作すは、春に居て春を制する深き眼である。此瞳を遡つて、魔力の境を窮むるとき、桃源に骨を白うして、再び塵寰に帰るを得ず。只の夢ではない。模糊たる夢の大いなるうちに、燦たる一點の妖星が、死ぬる迄我を見よと、紫色の、眉近く逼るのである。女は紫色の着物を着て居る。


 

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