フラニーとゾーイー

J.D.サリンジャー/野崎 孝訳(1988年刊 新潮文庫)

2003.7.17読了 7.19メモ

14年目の再読

巻末に1989年9月20日に読み終えたメモを残している。当時、僕は22歳、大学5回生の夏であった。今、振り返るに、自分の人生でも一番ふらついていた、脱力感の漂う一年だった。今は36歳、この物語のグラース家7人兄妹中で現存している最年長のバディと同年齢になってしまっている。神戸までの日帰り新幹線の中で何か読めるような文庫本を、と取り出したのだけれど、ハイティーンの世代に支持される本書を、まさか、この年でこうして再読することになろうとは当時、思いもしなかったことだ。

題名は荒地出版社の『フラニー/ズーイー』の方が適切。原作は1955年と57年にそれぞれ別に書かれた連編。


話のかみ合わない男女

グラース家の7人兄妹は、かつて皆が『これは神童』のラジオ番組に出演して世間にグラース家の名を知らしめした優秀な頭脳の持ち主であるが、本書はその中の下の2人、末妹フラニーと6番目の弟ズーイーの物語である。

大学に通うフラニーが、週末のデートのために、汽車でボーイフレンドのレーンを訪れるところからストーリーは始まる。フラニーはこの日、どうしてだか自分の感情をコントロールできない。レーンにとっては、フットボール観戦の前の食事として、「シックラー」なるつぼにはまった粋な店の選択をして、非の打ち所もないほどつぼにはまってみえる美人のフラニーを連れてきている自分に酔っている、自己満足に浸っているのだが、レストランでの2人の会話は一向にかみ合わない。フラニーからすると、レーンは、かっこよくて頭もいいけれど人の気持ちを察することができない、インチキな男のように思えてしまう。この日、会う直前の手紙では「キスキスキスキス」と最高の愛情表現をレーンに送っていたフラニーなのに、この日は全てのレーンの言葉が許せなくて反発してしまう。レーンのもたらす話題の何かにつけて苛立ち、自分の感情のとげを抑えられない。せっかくのデートを台無しにしてしまう。

フラニーは『ライ麦』のホールデン・コールフィールド同様、自身の無垢さを大事にするあまりに、世の中の「エゴ」や「いやらしいもの」や「インチキさ」に対する嫌悪感が強く、それらを許せない。感受性の強いタイプにありがちな、潔癖性を有している女性ともいえる。けれども、ホールデンが逐一、自分の行動と感情を語りながら進む『ライ麦』と違って、ここではどうしてフラニーの神経が今日に限って尖っているのか、その原因がどこにあるのか、読者は分からない。

この前編の『フラニー』は、週末のデートで久しぶりに会ったけれども話がかみ合わない若い恋人同士の話、というふうに単純化してしまえば、よくある話だ。レストランや喫茶店の恋人同士は、必ずしもいつもにこやかで幸せな2人を演じている男女ばかりではない。決して相性が悪いわけではないけれど、なぜだか話がてんですれ違ってしまう、そういうことはままあることだ。久しぶりに会う時だからこそ相手にきかせたいものがお互いにあって、けれども、そのお互いの心に抱えている「大切なもの」が全く交わることのない次元にある。それぞれの思いのベクトルが強過ぎるゆえに、若い2人の男女はめいめいの話をするばかりで、「一体、どうして相手は自分の話を分かってくれないのか」とお互いがいらだってしまう。

家族の物語、兄弟の団結

後編『ズーイー』では、この傷ついた状態で、実家に戻ってきた妹フラニーを兄ズーイーが励まそうとする。ズーイーとフラニーの会話の前には、5年前のバディからの手紙を浴室で再読するズーイーと、その後のズーイーと母ベシーとの長い長い会話が用意されていて、ここで読者がグラース一家のこと、7人兄妹のそれぞれの現況、さらにズーイーの人となりや、母の目で見たそれぞれの兄妹像をつかめるようにできている。

母にうながされてフラニーに話しかけたズーイーだが、ことはすんなりと運ぶわけではない。むしろ、レストランでのレーンとの会話以上に兄妹のやりとりは、お互いの主張が激しくぶつかって壮絶を究める。「あなたみたいに同情のない人はいない」「あなたほど人の気持ちを察しない人間はいない」とフラニーに叫ばせるほどに、ズーイーは非情なまでに徹底的にフラニーを叩きのめす。兄妹ゆえの容赦ない本音で投げかける厳しい言葉の数々が、妹を慰めるどころか、逆に火に油を注ぐ結果をもたらして、ズーイーは部屋を立ち去る。

フラニーは「(長兄の)シーモアと話がしたい」という。そのシーモアは7年前に自殺してこの世にはもういない。

フラニーと激しくやり合った後でズーイーは、かつて長兄シーモアとバディが使っていた部屋を久しぶりに訪れる。シーモアの机に座り、バディを装ってフラニーに電話をかけるのだが、それは、フラニーを説得しようとして、なだめようとして自分の手に負えなかったズーイーの、最後の手段として2人の兄達の力を借りようとした行為に他ならない。フラニーは途中で電話の主がズーイーだと見破るが、兄ズーイーも以前シーモアにきかされたという「太っちょのオバサマ」の話をきくと、突然、自分の求めていた知恵をつかむことができたことに気付かされる。

女の子というもの

伝説化しているように、サリンジャー自身も特異な、鋭敏な神経の持ち主であるから、こうした彼の独特の世界観を示した作品が今も読み継がれている。

精神的に傷ついたフラニーの回復を描こうとしたこの物語のキーは、フラニーの心をとらえているロシアの農民が書いた『巡礼への道』という本の内容と、ズーイーが電話できかせてやった「太っちょのオバサマ」にまつわる部分にある。祈るという行為、そしてイエスキリストをめぐる宗教観であり、物語の肝心な部分が正直、僕には理解の難しいものになっている。

僕はそれほど感受性の鋭敏な人間ではない。当然、このフラニーのような女の子の感情の震えというものも分からない。今、バディと同じ年になって思うのは、フラニーの年齢である20歳の頃なんて、同い年の女の子と話をしていても、僕はちっとも相手のことを分かってなどいなかったということを、年を重ねてゆくことでようやくはっきりと気付かされたということだ。

だから、今回、14年の時を経た再読で思ったのは、悪役にされしまった形のレーンがかわいそうで、同情してしまうということ。何もレーンが全て間違っているわけではない。兄ズーイーに指摘されたように、フラニーの方にも思い込みの過ぎる点はたくさんあったのだ。特にフラニーのように感受性が強い上に頭の良過ぎる女の子は、知識が自身の鋭敏な感受性と混ざり合って、異常なほどに自我を膨らませている。経験を伴わない、経験よりも先走ってしまう自我によって、うまく自分を世の中に適合させられない。そして、苦しむ。とてもではないが、普通の男の子が受け止めてやることなどできない。

20歳のフラニーを慰めるのに、血を分けた5歳年上のズーイーをもってしても最初はダメだった。ずっと年の離れたシーモアやバディら兄の力を借りることで、どうにかして、やっとフラニーを救うことができたのだといえる。この物語の本質をなす宗教観についての考察を棚上げにして、若い恋人同士のすれ違う気持ちという風に読むとするなら、変な読み方ではあるけれど、そういう風に読めば、フラニーのような女の子をうまく相手にできない、心の中が分からないということが、どうしたってあるのだと、男の子はせめて救われるんじゃないか。

1989年、当時は僕も女の子にフラれて、めそめそしていた年だった。

満足度:★★★★

「何ていうかなあ、詩人ならばね、何かきれいなものがあると思うの。つまりね、読み終わったりなんかしたあとに、何かきれいなものが残るはずだと思うのよ。あなたの言う人たちは、きれいなものなんか、ひとつも、これっぽっちも残しやしないわ。ちょっとましな場合だって、こう、相手の頭の中に入りこんで、そこに何かを残すというのがせいぜいじゃない? でも、だからといって、何かを残すすべを心得ているからといって、それが詩だとは限らない。そうでしょ? なんか、すごく魅力的な文体で書かれた排泄物―― と言うと、下品だけど、そういうものにすぎないかもわかんない。マンリウスとか、エスポジトとか、ああいったご連中みたいに」


 

  Related Entries


Message

メールアドレスが公開されることはありません。