博覧会に賭けた人たち

19世紀におけるチェコの変化

2006年刊中公新書

ヨーロッパ中を巻き込んだナポレオン戦争中の1804年、ハプスブルク家のフランツ2世が「オーストリア帝国皇帝」を称し、2年後には自ら神聖ローマ帝国を廃止した。チェコやハンガリーも、以降はオーストリア皇帝の統治する国家の一部となった。オーストリアはフランス軍を撃退し、ナポレオン戦争後の1815年以降、ウィーン体制と呼ばれる復古的時代のヨーロッパを率いる大国となった。

自由主義・国民主義の進展のもと、1848年のフランス2月革命でこの保守的な体制はいったん崩壊する。その後、短期間ながら再び「新絶対主義」体制が整ったことは、一面では近代化を推進する性格も併せ持ち、チェコでも工業化が進んだ。

1866年にプロイセンとの戦争(7週間戦争)に敗れたオーストリアはドイツ統一の主導権を失い、翌年ハンガリー王国の自立を認めた、いわゆるオーストリア=ハンガリー二重帝国を発足させた。帝国内でドイツ人に次ぐ勢力を持つハンガリー人との妥協策であったが、オーストリア側に組み込まれたままのチェコでの不満が高まった。こうして19世紀後半は、民族としての自覚を強めつつあるチェコ系住民と、ドイツ系住民との溝が深まっていった。

ドイツ系住民との溝、スラヴ人の連帯意識の高まり

こうした時代、チェコの工業連盟が内国産業博覧会開催を提案する。ドイツ人経営者に劣らずと、自信を強めていたチェコ人経営者が自分たちの製品の質を内外に宣伝する場を求めていたのである。しかし、プラハ、チェスケー・ブジェヨヴィツェ他5つの都市にあった商工会議所が当初はドイツ人中心で運営されていたこともあり、計画は簡単には実現しない。

二転三転、政治的思惑も絡め、ドイツ人実業家の不参加のまま、ヨーロッパ最初の博覧会がプラハで開催されたことにちなんだ100周年記念博覧会が1891年に開催された。ホレショヴィツェ北西部の森林公園一角が会場となったこの博覧会は、製糖業、機械工業、電機産業などチェコ人の高い実力水準を誇示する場となった。

博覧会は世界各国から人々を集め、大成功のうちに幕を閉じた。チェコ人の他、ポーランドやセルビア、ロシアなどからスラヴ系の人々を集め、一種の「スラヴ人の連帯意識」を育ませたことで、非ドイツ系の人々の不穏な動きにつながるのではないかという警戒心をオーストリア政府に抱かせることともなった。

19世紀の末、ヨーロッパ中を近代化と産業化の並が襲い、各地の人々の間で近代的な民族意識が形成されていく中で、チェコもまた、新しい時代の入口へゆっくりと近付きつつあったのである。

満足度:★★★★★


 

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