モーツァルトとプラハの幸福な出会い

薩摩秀登(2006年刊 中公新書)

2007/07/26読了、2007/08/02メモ

ハプスブルク帝国の形成

2006年刊中公新書

三十年戦争の戦火が止んだ後、チェコやモラヴィアでは平和な時代が長く続いた。ヨーロッパ中を一世紀にわたって揺るがせた宗教戦争も17世紀後半には過ぎ去り、ハプスブルク家の君臨する諸国ではカトリックが公式の宗派として定着した。こうして平穏な時代を背景に各地できらびやかなバロック風の教会が建てられた。チェコやモラヴィアには、今でもこの当時の生活をしのばせる景色が多い。

この時期、領土拡大を目指したハプスブルク帝国を君主にチェコは良好な関係を築いていたが、1740年ハプスブルク家マリア=テレジアの即位を機に始まった「オーストリア継承戦争」に巻き込まれる。フランスの後押しした連合軍にプラハは占領され、次いでプロイセン軍による攻撃と略奪に見舞われた。さらに試練は続き、ハプスブルク家が対プロイセン復讐に打って出た「七年戦争」でも苦杯を舐め、チェコ王冠諸邦はシレジアを失う。

これらの戦争後、マリア=テレジアの改革によりチェコとオーストリアの行政局が統合され、ウィーンを中心とした帝国づくりが進められると、チェコの独立性は形骸化し、プラハも一地方都市に過ぎない存在となっていった。

啓蒙絶対主義とプラハ劇場

さらに後を継いだ皇帝ヨーゼフ2世の改革は「啓蒙絶対主義(専制君主)」と呼ばれた。これは「旧体制」と決別し、身分的差別や社会的規制をなくして自由を保証しようとする理念であったが、「上からの」強国化のための改革であり、社会にも浸透しなかった。

チェコ、モラヴィア、ハンガリーなどのハプスブルク家の統治する各国でもこれに対抗する形で新しい活動が高まっていき、帝国政府による中央集権化に抵抗し、地域独自の伝統・文化の掘り起こしや擁護へと進んでいった。

この流れの中、チェコの文化水準を高めるべく、周辺諸国にも誇れる劇場をプラハに建てようと画策したのがノスティツ伯爵である。劇場建設の役割が裕福な貴族に期待されていた時代で、1783年、貴族身分を意味する単語のスタヴォフスケー劇場として完成した。

『フィガロの結婚』、プラハで圧倒的に支持されたモーツァルト

この最新鋭の劇場で大成功を収めたオペラがモーツァルト作曲による『フィガロの結婚』である。当時からチェコにも音楽家はいたが国外で活動していた。パトロンがいること、華やかな宮廷に身を寄せる必要から、一地方都市のプラハでは不利だったためである。モーツァルトも至近距離のチェコに当初、足は向かないでいたが、プラハ市民の念願の招待がついに実現する。

モーツァルトは熱烈な歓迎のもとで自ら「フィガロ」を指揮し、さらにはプラハ滞在中に新作オペラ『ドン・ジョヴァンニ』を完成させて上演するとプラハ市民に熱狂的に支持された。モーツァルトが生涯を閉じたとき、ウィーンでは寂しい埋葬だったが、プラハでは盛大なミサがあげられた。その後も作品は愛され続け、今でもプラハの人々は、モーツァルトを誰よりも正当に、高く評価したのが自分たちだという自負を持ち続けている。

モーツァルトとプラハ。五年にも満たなかったとはいえ、この両者の間にかくも幸福な出会いが実現したのはなぜだろうか。あり余る才能のゆえに、一握りの王侯貴族だけが独占する宮廷音楽の世界に収まりきらなかったモーツァルト、そして、高い生活水準と文化を誇りながら、当時の体制では一流の都市になりきれなかったプラハ、その間に、何か通じ合うものがあったと考えることはできないだろうか。あるいは、ウィーンでは必ずしも評価されなかった大天才を破格の扱いで大歓迎すること自体が、プラハの人々の心意気を示していたのかもしれない。それは確かに、プラハがその長い歴史の中で経験した最も輝かしい瞬間の一つであっただろう。

満足度:★★★★★


 

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