大学は誰のものか

薩摩秀登(2006年刊 中公新書)

2007/07/26読了、2007/08/01メモ

宗教紛争の嵐の中の大学の存在

2006年刊中公新書

16世紀後半、プラハに宮廷を移した皇帝ルードルフ2世は宗教的に寛容政策を維持したこともあり、プラハには彼を慕った芸術家や学者が集まり、後期ルネサンス文化の華麗な中心地となった。

一方で長年、共存していた宗派に危機も近付いていた。17世紀にはいり、チェコ議会がルードルフのチェコ王廃位を宣言、宮廷がプラハからウィーンに移されるといった事態が相次ぐ。チェコとハプスブルク家の関係悪化が目立ってきた。1618年、大司教により教会が閉鎖されたことを契機に、フス派を含むプロテスタント貴族がプラハ城の窓から皇帝の代官らを放り投げる事件が起きる(「プラハ窓外放擲事件」)。プロテスタントの叛乱が始まったのである。

チェコのプロテスタントは執政符をつくり、モラヴィアやハンガリーの領邦からなる連合国家「ボヘミア連合」が発足するが、プロテスタント軍はあっけなく敗北する。妥協を許さぬカトリックの皇帝フェルディナント2世がチェコ王位に就くと。叛乱軍に厳格な処罰が下された。

皇帝はハプスブルク家を唯一正統な君主とし、カトリックを唯一の宗教と定めた「改訂領邦条例」を発布したが、プロテスタント排除を旗印に掲げてドイツ全体、さらには周辺諸国を巻き込む三十年戦争に突入する嚆矢ともなった。こうして表向きは、チェコとモラヴィアでの絶対主義体制が築かれた。

叛乱の拠点、プラハ大学解体の危機

200年もの間、フス派の拠点でもあったプラハ大学にも危機が訪れる。皇帝は大学の廃止も考えたが、イエズス会クレメンティヌムとの統合で廃止を免れた。大学の代表者である学監の地位にも、これまでのプラハ大司教でなく、イエズス会士が占める等、大学が全てイエズス会の統率下に置かれるようになった。

しかしながら、これには大司教との対立のみならず、チェコの再カトリック化の主導権を誰が握るのかといった問題や、既存の修道会との反目までも表面化して、カトリックの内部での深刻な対立を浮き彫りにした。

そもそも大学の権限をどこに求めるのか? イエズス会はカレル4世の勅書を起源に皇帝の権限とする。一方で大司教は勅書に先立つ教皇クレメンス6世に基づくとして、大学の自治を守ろうとした。こうした事態は、現場の教師や学生らの不穏な動きにもつながり、プラハではイエズス会支持派と大司教支持派との衝突が相次ぐ。

フェルディナント2世の後を継いだ3世は、この大学の混乱を復活させようと、法学部と医学部をいったん分離して新生プラハ大学の基礎とする。一方で、教皇が大司教を緯線してセミナリアを大学に格上げする。さらには、クレメンティヌムだけに限定されていたイエズス会もある。プラハに3つの大学が並立しかねた。

「カール・フェルディナント大学」発足へ

こうした混乱にあって別の方向に大学をまとめたのが、三十年戦争講和条約のヴェストファーレン(ウェストファリア)条約起草の段階にあったにもかかわらず、チェコに攻め込んできたスウェーデン軍への抵抗であった。結束した大学側の果敢な戦闘によりスウェーデン軍は撤退した。

こうして、チェコでもようやく三十年戦争が終結し、プラハ大学問題に本腰が入る。クレメンティヌムと大学を再統合した新大学は皇帝の権限のもとに置かれるが、神学部と哲学部はイエズス会士に委ねられる。大司教は再び、学監として最高責任者の地位に就く。この最終案により1653年、正式名称を「カール・フェルディナント大学」とするプラハ大学が新しく発足した。

以前に比べると「皇帝の大学」の性格が一層強くなっているが、こうした対立の議論があったからこそ、宗教紛争の嵐の中で消滅することなく、新時代にふさわしいチェコの精神文化の支柱として生まれ変わることができた。

郷土色あふれるカトリック

こうした時代にあって、哲学部出身のボフスラフ・バルビーンが『チェコの言語の擁護』を執筆した。ハプスブルク家の支配の確立でドイツ語がチェコ語同様に公用語として引き上げられると、チェコ語が退潮気味となったことに対し、郷土のスラヴ人の言葉を喪うべきでないという、伝統擁護の主張を強めたのである。

チェコに独自の言語文化があったという意識の現れは、チェコが古くから「神聖なるカトリックの国」であったとする独特な郷土意識をも育ててゆく。10世紀の君主ヴァーツラフは近世になってなお最も崇拝された聖人であり、皇帝カレル4世が長男の名前にしたほどである。アネシュカの列聖を求める声も強くなっていった。

自分たちの国だけが何か特別に神聖であるかのように言い立てるのは、確かに偏狭な態度であり、論理的でもない。しかし近世になって広まったこうした傾向はチェコに限ったものではないし、民衆の間に従順な信仰心を植え付けるには好都合でもあった。そこで教会も、あまり逸脱しないように注意を払いつつ、この「郷土色豊かなカトリック」を、時には積極的に支持し、広めていったのである。

当時の社会の少なくとも上層の人々は、ハプスブルク家の支配とカトリックの信仰を当然のこととして受け入れつつ、同時に、由緒あるチェコやモラヴィアの住民であることに誇りを抱くようになっていた。

満足度:★★★★★


 

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