書籍づくりに捧げた市民の生涯

薩摩秀登(2006年刊 中公新書)

2007/07/25読了、2007/07/30メモ

フス派戦争後、揺れる16世紀プラハ

2006年刊中公新書

フス派戦争による痛手は大きく、経済活動は大きく落ち込んだ。文化的にも異端の国と見なされたチェコ全体が孤立状態に陥り、イタリアに発してヨーロッパに広がっていたルネサンス文化もプラハにはなかなか届かなかった。かつては神聖ローマ皇帝の宮廷所在地として繁栄したプラハは、16世紀初頭には、政治や宗教に揺れるチェコという一王国の首都にすぎなくなっていた。

プラハ大学も同様で、アルプス以北の神聖ローマ帝国初の大学として名声を誇ったのも過去の話となり、活気を失っていた。この頃、在籍していた学生がギリシア語で「黒髪」を意味する名前のメラントリフ。興味を抱いていた出版業の分野で、しばらく後に名を挙げる。

国王フェルディナントの宗教政策とルネサンス都市プラハ

ハプスブルク帝国の事実上の創始者といえる国王フェルディナントは、チェコの「再カトリック化」に取り組んだ。トレント公会議の路線に沿った事業の一環として、1556年、プラハにイエズス会の修道院と学院が設立され、ここが再カトリック化の拠点となった。カレル橋近くの旧市街にあり、現在はクレメンティヌムの名で知られる。

メラントリフはこの状況に時期を得て、チェコ語版聖書の出版により成功をおさめる。出版業以外の仕事も順調で、プラハの文化的発展を支える一知識人としての地位を確立していった。

16世紀後半には、プラハもようやく、他のヨーロッパ大都市に負けぬルネサンス文化の栄える街になりつつあった。プラハ城周辺には貴族たちの優雅な館が次々と並び、プラハで最初の本格的ルネサンス風宮殿建築として知られる離宮ベルヴェデーレも建てられた。

こうしたルネサンス文化を背景に知的関心が高まったプラハでは、知識、教養の取得に書籍や詩文集、専門書の需要が高まった。メラントリフもプラハで最も権威ある出版業者としての評判を不動にする。名実ともに都市貴族の仲間入りを果たしたメラントリフであるが、1564年に国王フェルディナントが亡くなると、風向きが少し、変わってくる。

チェコ総督という地位が廃止され、学者や文化人もプラハを去っていった。さらに芸術庇護者も続けて亡くなり、プラハの文化活動に陰りが見えるようになった。同時に宗教事情にも変化があらわれる。フス派やルター派のプロテスタントが活動の体制を整えてゆく。チェコが宗教の共存から分裂へとゆっくりと移り変わっていく転換点の始まりであった。

現在、旧市街広場近くの彼の旧邸宅前はメラントリフ通りと呼ばれ、死後は妻とともにベトレーム礼拝堂に葬られている。順調だった自分の生涯に満足しての死であったか、チェコの将来にかすかな不安を覚えていたかは想像するしかない。しかし、彼の一生は、歴史のはざまに生きた一人のプラハ市民が、時代の動きに柔軟に対応しつつ、どこまで世の中に貢献することができたかを示しているように思われる。

満足度:★★★★★


 

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