貴族たちの栄華

薩摩秀登(2006年刊 中公新書)

2007/07/25読了、2007/07/30メモ

中世モラヴィア地方と炭焼きヴァニェクの伝説

2006年刊中公新書

現在のチェコ共和国のうち、東のモラヴィア地方は、ゆるやかな盆地となっている西のチェコ地方に比べて、ドナウ川に続く開放的な地形となっている。かつて栄えたモラヴィア王国が滅んだ後、この一帯は11世紀半ば頃からチェコの君主プシェミスル家による支配が確立したが、「モラヴィア辺境伯」の置かれる間接統治という形式をとった。全土が統一されることはなく、各地で有力な貴族や司教、修道院長が広い領地を背景に権力をふるっていた。

このモラヴィアの地には、かつて獰猛な野牛の被害から救った炭焼きヴァニェクなる庶民を領主が称え、褒美に授けられた領地に城を建てたという伝説がある。ペルンシュテイン城と名付けられたのは、ベア(熊)+シュタイン(石)のドイツ語起源からなるもので、中世には貴族たちが居城の名をつけて名乗る習慣があったことから、一族はペルンシュテイン家と呼ばれるようになった。伝説ではあるが、「鼻輪を付けた野牛の頭」の紋章は13世紀には確かに出現している。

戦国領主ペルンシュテイン一族

カレル4世がチェコ王の座にあった平和な時代には、貴族たちが活躍する機会もなかったが、14世紀末になると彼らの武力が再び日の目を見る時代となった。市民を財力武力で抑えていた貴族らの天下を一層、強くさせたものが時のフス派戦争であった。

フスの処刑に抗議したペルンシュテイン家は、ヴィレーム1世、その息子ヤン1世に率いられてチェコのフス派連合軍に加わって、数々の軍功を挙げた。もっともこれは宗教的な理由というより、君主の権力が失墜し社会の混乱にあって、自らの勢力拡大に利したためである。

動乱後、フス派から国王が選ばれたが、教皇はこれを認めずハンガリー王をチェコ王に担ぐ。二人のチェコ王が泥沼の戦いをみせる中、地形的に南のハンガリーと接するモラヴィアにあってペルンシュテイン家ヴィレーム2世はハンガリー王の陣営に加わったことで功を奏する。さらに、ハンガリー王の死後は、一転、カトリックに改宗しフス派を離れる。信仰に基づく行動でなく、この時代の大貴族にとっては政治の方が重要であったためである。

ヴィレームの英断により、ペルンシュテイン家は大領主への道を歩む。王室領の多くをわがものにし、政略結婚も駆使しながら、15世紀末にはチェコとモラヴィアで最大の権勢を手中に収めた。国王がハンガリー国境を脅かしていたオスマン帝国に対する防御に腐心せざるを得ない事情もあって、ペルンシュテイン家は貴族にあってチェコとモラヴィアで政治の全権を任された形ともなった。

貴族政治の全盛期と落日

政治的にも経済的にもペルンシュテイン家の黄金時代を築き上げ、同時にそれはチェコとモラヴィアの貴族政治の最盛期でもあった。このヴィレーム2世の時代にはビールの醸造やワインの生産も魅力的な収入源であったが、最も高い収益を上げたのは意外にも漁業である。海のないチェコでは、鯉の養殖を貴重な栄養源としていた。今でもチェコ南部の養鯉業は伝統産業として有名であり、クリスマスの特別料理として鯉を食べる習慣は健在である。

ヴィレーム2世の死後、2人の息子がチェコとモラヴィアの所領を継いだが、宗教改革の波紋からフス派やルター派との緊張関係が高まり、ドイツで生じた皇帝とプロテスタント諸侯の衝突に巻き込まれるなどの動乱にあう。一時は国王の存在さえかすんだ栄華を誇った一族も、二兄弟の死後、ペルンシュテイン家も没落してゆく。

モラヴィアの最も由緒正しい一族も権勢を滑り落ちた格好であるが、彼らの身に付けたルネッサンス風の教養と優雅さは人々の驚嘆を得ていた。チェコ東部の地に残るリトミシュル城は、繊細な装飾が際立つルネサンス風の城で、現在のチェコ共和国に残る最も美しい建造物の一つである。

貴族たちの生活スタイルも変化していた。ヨーロッパ各地を支配する盟主ハプスブルク家の地位が定着するにつれて、大貴族たちが自分の領地に城を構えて君臨する群雄割拠の時代は過ぎ、むしろ、プラハやウィーンの王宮を生活の場として国王に直接仕えることこそ、貴族にとって最大の名誉と考えられるようになっていった。

モラヴィアの山奥の一庶民から身を起こし、華麗な一時代を築き上げたペルンシュテイン家は、中世の終わりとともに再びはるかな歴史のかなたへと消えていった。しかしチェコやモラヴィアの各地に残る城や館は、彼ら大貴族こそがこの時代の主役であったことを今でも雄弁に物語っている。

満足度:★★★★★


 

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