異端者から民族の英雄へ

薩摩秀登(2006年刊 中公新書)

2007/07/24読了、2007/07/24メモ

中世カトリック教会の危機

2006年刊中公新書

チェコ国王であり、神聖ローマ皇帝でもあったカレル4世は、14世紀初頭に南仏のアヴィニヨンに置かれた教皇庁を本拠のローマに戻そうと努めた。一応の達成は果たせたものの、カトリック世界の頂点に2人の教皇が並び立つ「教会大分裂時代」の始まりでもあった。

権力闘争に明け暮れる両者は、富と権力を求めた。チェコでは教会がカレル4世により優遇され、莫大な財産を抱え込んでいた。こうして、あまりに豊かになりすぎたカトリック教会に民衆からは疑問と批判の声が強まってきていた。

15世紀初め、プラハ旧市街べトレーム礼拝堂で一人の聖職者の行う説法が評判になっていた。その名をヤン・フス、教会の不道徳を市民に向かってチェコ語──豊かでない階層の人々の使う──で語っていた。

真のキリスト教社会を目指して

教会当局のフスへの破門宣告、さらには、すでに教会を疎ましく思っていた国王がそれに対抗して教会を弾圧するなど、プラハでは混乱が高まっていた。フスの思想は本来の教会の姿を取り戻そうとした、純粋に宗教的な問題であり、カトリック教会に刃向かい民衆を煽動しようとする過激なものではなかった。

しかしながら、プラハで起こった一連の騒動の張本人、また危険思想の最先端として非難の集中砲火を浴び、異端者の汚名のまま火刑に処せられる。

異端者としての死後、強まる支持

フスは消え去ったが、教会の批判は止まない。むしろフスの処刑をきっかけに「フスの処刑はボヘミア(チェコ)とモラヴィアに対する永遠の侮辱であり誹謗である」と抗議した貴族らの同盟が生まれる。また、カトリックとは別の集団の新しい宗派がいつしかフス派と呼ばれるようになっていた。この異端を撲滅しようと乗り込んだドイツ王との間に始まった戦端が、15年にわたるフス派戦争である。

異端者集団のフス派は熱狂的な戦いでプラハを支配し、カトリック教会の送り込んだ軍隊を撃退した。

フス派時代の終焉、近代に再復活

その後もフス派とカトリックは反目しつつも共存したが、やがて宗教改革の波を受けて一層の宗派分裂を引き起こす。17世紀初頭に生じた叛乱から起こった衝突では、ハプスブルク家に支援を受けたカトリックが勝利を収める。フス派時代の終焉である。その後のチェコの平和な時代の中でフスやフス派戦争は人々の記憶からも消えていく。

19世紀に入って、フスやフス派の名が華々しく復活をとげたのは、チェコの人々の民族意識の高まりからであった。他のヨーロッパ諸国にひけをとらない、自分らの国にも輝かしい歴史を証明したかったチェコ人が、カトリック世界を相手に戦ったフスを英雄視し、その時代こそチェコの歴史の頂点であると解釈したのである。

歴史の実態からはかけ離れているが、民族の自立という政治的主張のシンボルとしてフスが崇拝された。19世紀の激動の歴史を思うと、民族精神の拠り所を求めようとしたチェコ人に支持されたこともうなずける。

1999年にフスの名誉を回復したのが時の教皇ヨハネ・パウロ2世。600年近くも昔の異端者への対処として今さら、と思えるような少々、不思議で、実に気の長い話の処遇である。

いずれにせよ、チェコの歴史上の傑出した人物がフスである。

不名誉な異端として歴史の片隅に追いやられ、ほとんど忘れられようとしたフスやフス派の名は、19世紀に入って華々しい復活をとげる。自分たちの国には、他のヨーロッパ諸国にひけをとらない、中世以来の輝かしい歴史があると考えたチェコの人々は、カトリック世界全体を相手に一歩も引かずに戦ったフスやフス派の時代こそ、チェコの歴史の頂点であったと解釈したのである。

かつての異端者は、今や殉教者として崇拝の対象となり、フス派の戦いは文学作品や絵画で好んでとりあげられた。フスこそチェコ民族の精神の誇りである、といった、歴史の実態に照らせばかなりおかしな議論が、ごく普通にまかり通る時代になったのである。1915年7月6日、すなわちフスの処刑後500年目の日にプラハの旧市街広場で除幕式が行われた、ラジスラフ・シャロウン作によるフスと支持者たちの群像は、こうした英雄としてのフスのイメージを見事に表現した傑作といえるだろう。

満足度:★★★★★


 

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