皇帝の住む都

薩摩秀登(2006年刊 中公新書)

2007/07/26読了、2007/07/26メモ

カレル4世とプラハ

2006年刊中公新書

旧市街広場からカレル橋広場手前の塔には3人の人物像がある。中央がチェコで篤く崇拝された聖ヴィート、向かって左が14世紀のチェコ王カレル4世、右がその息子ヴァーツラフ4世。

カレル橋他、プラハのいたるところにカレル時代の遺産を残したカレルはチェコ王であり、ドイツ王であり、同時に神聖ローマ皇帝でもあった。中世チェコ王国の最盛期を築いた君主である。

ルクセンブルク王朝の登場

1306年に男系の血筋が途絶えてしまったチェコの王家プシェミスル家に代わり、チェコの人々が担ぎ出したのが時のドイツ王ハインリヒ7世の息子ヨハンであった。中世の時代にあっては、仲間内で争うより、他国の君主を国王に迎える方が問題なかったのである。

元々、ドイツとフランスの間に位置するルクセンブルク伯という地位にあったハインリヒが受け入れ、1316年、チェコに外来の新しい王朝が成立した。

ドイツ王位奪回とローマ遠征、帝国基本法典「金印勅書」

ドイツが分裂状態に陥っていたころ、徐々に王権の基礎を固めていたフランスは、当時の教皇をも利用してヨーロッパ政治の主役へとのし上がろうとしていた。ヨハンはいったん、ドイツ王と皇帝の位を奪われるが、1346年、その息子カレルが選挙候の票を得てドイツ王に返り咲く。チェコ王位をも引き継ぐこととなったカレル、チェコ王としてはカレル1世だが、カレル4世と呼ぶのはドイツ王あるいは皇帝としての数え方のためである。

チェコ王として、ドイツ王として君臨したカレルであるが、彼にとって最大の課題であったのは、神聖ローマ皇帝の位である。

8年後にようやく戴冠を果たしたカレルが神聖ローマ帝国の新しい統治プランとして考え出したのが帝国基本法典「金印勅書」である。これは神聖ローマ帝国の崩壊する1806年まで効力を保ち、近世ドイツの体制を根底から支える役割を担った。

しかもこの新しい構想の中でチェコは特別な格付けをされていた。帝国統治の拠点をチェコに、特にその中心都市プラハに置くというものであった。

「チェコ王冠諸邦」の創設

伝統的にチェコ王のもとにまとめられてきた地域としては、チェコ王国(ボヘミア地域)のほかに東方のモラヴィア、北東方のシレジア、北方のラウジッツなどの諸邦がある。これらをチェコ王権の元にまとめるためにカレルがとった政策が統合のシンボルを用いる方法であった。すなわち、プシェミスル家草創期の君主で聖人として崇められていたヴァーツラフの王冠を国王自身より上位にあるシンボルとして位置づけ、この王冠に対する忠誠を各領邦に誓わせた。

この「聖ヴァーツラフの王冠諸邦」、別名「チェコ王冠諸邦」は、一部地域をその後に失ったものの、近代まで生き続けた。その領土が今日のチェコ共和国に受け継がれている。

国家の中心としての大聖堂と首都拡張計画

こうして、国家の中心としてのプラハの街づくり、舞台づくりの事業も進められてゆく。プラハ城内の聖ヴィート大聖堂はゴシック式協会の最高傑作のひとつに数えられる。ヴァーツラフの遺骨と王冠を収める聖ヴァーツラフ礼拝堂は大聖堂の中でも特別に神聖な空間で、チェコの中心としての神聖さが凝縮されている。

南塔は最後の審判の画面が飾られ、黄金の門と呼ばれている。大聖堂全体が完成するのは20世紀に入ってからという息の長い事業でもあった。

カレルは城内だけでなくプラハの街にも手を加えた。既に14世紀のプラハはアルプス以北のヨーロッパで大都市であったが、今日「旧市街」と呼ばれる地域からさらに新たな市域を設定した。後に「新市街」と呼ばれる地域である。さらには要塞都市ヴィシェフラト、小市街マラー・ストラナ、フラチャニといった地域が整備され、プラハは「お屋敷町」として発展してゆく。カレル時代のプラハは空前の規模の大都市となっていた。

皇帝の都プラハ

この時期のプラハは単に規模が拡大しただけでなく、皇帝が住む街としての格も身に付けていた。神聖ローマ帝国の伝統的諸事業を執り行うのにふさわしい街としての建築物が整備され、神聖ローマ帝国で最初の大学が創設されたのもこの時期のプラハである。カレルの意図として、神聖ローマ帝国の重心が以前より大きく東方に移動した象徴的な意味合いが随所に見られる。

チェコ王冠諸邦の中心プラハを新たな帝国統治の拠点としようとしたカレルの壮大な構想であった。

しかし、このためには莫大な資金が必要であり、戦争も絶えず、市民にとっては負担は大きかった。

カレルの死後、チェコには一転して動乱の時代が訪れる。ルクセンブルク家もカレルの次の世代で断絶してしまう。ドイツ王と皇帝の地位、そして結局はチェコ王の地位もまた、オーストリアのハプスブルク家に受け継がれてゆくことになる。

しかし、プラハの街はハプスブルク家のもとでも、さらに華やかな文化を守り育てていった。チェコ王冠諸邦という制度も、数百年間維持され、現在までその痕跡を残している。

カレル時代のプラハが空前の繁栄の時期であり、市民が長期間にわたって平和を楽しむことができたことは否定できない。後の時代の人々が、カレルの時代こそが、中世のプラハとチェコの最盛期であったとみなすのは、ごく当然のことであろう。

満足度:★★★★★


 

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