王家のために生きた聖女

薩摩秀登(2006年刊 中公新書)

2007/07/26読了、2007/07/26メモ

プシェミスル朝チェコの登場

2006年刊中公新書

プラハ旧市街の北のはずれにある聖アネシュカ修道院はチェコで最も古いゴシック建築のひとつであり、この修道院の創設者となった女性をまつっている。

モラヴィア王国崩壊後のチェコは不安定な情勢が続いたが、10世紀末から11世紀半ばにかけて、伝説上の祖先の名をとった王家、プシェミスル家によりほぼ現在のチェコ共和国に相当する領域に及ぶ国家が築かれた。

チェコという国家がヨーロッパ中央部に新しく登場したわけだが、特筆すべきことがらがある。ひとつには、プシェミスル家の統治する独立国家でありながら、上位君主として神聖ローマ皇帝を戴いていたこと。さらには東フランク王国の影響でキリスト教を受け入れたことである。

政治と宗教の両面でドイツと強い結びつきを持っていたこととなるが、当時としては神聖ローマ帝国に属する一諸侯として権力を高める方法もあったわけで、この方法により中世後期のチェコは華々しい活躍を見せることになる。

王家の末娘

1192年(日本では歴史的トピックスの鎌倉幕府成立年)、プシェミスル・オタカル1世がチェコ大公位についた。すでにプシェミスル家は300年の歴史を築いていたが、二つの王家が争う事態に陥っていたドイツ諸侯に取り入り、チェコの君主が神聖ローマ帝国内で特別に高い諸侯であるとの公式な認証を得る好機に与った。

オタカルはこの成果からさらに勢力を拡大しようと、子どもらを諸外国の君主と婚姻させる画策をとった。末娘がアネシュカであり、オーストリア大公という有力諸侯のもとに送られて、皇帝フリードリヒの息子ハインリヒとの結婚をもくろんだが、この計画は目的を果たせなかった。

政略結婚を拒否して政治の鍵を握る修道女へ

Klášter sv. Anežky České
聖アネシュカ修道院
Klášter sv. Anežky České

アネシュカの父、オタカル1世の死後、チェコ王となったのが息子のヴァーツラフ1世。アネシュカの兄である。同時に政略結婚に熱心であった父が死んだこともあり、アネシュカは相手が皇帝であれ結婚の意志なく、修道女になる決意を固めていた。政略結婚の道具として翻弄される生涯でなく、敬虔な道を歩んで尊敬を勝ちうる生涯を目指したといえる。

プラハに施療院を、また修道院を建てたアネシュカの強い熱意は、教皇に警戒される面もあったが、何百年にわたって繰り返されていた皇帝と教皇の対立という別の意味からは、非常に重要な人物としての面も備えていた。

中世ヨーロッパは、800年にカール大帝が皇帝として戴冠して以来、教皇と皇帝とを二つの頂点として成り立ってきた。2つの権力は11世紀から12世紀にかけての叙任権闘争の結果、教皇はカトリック教会の最高指導者として宗教面で、皇帝は世俗の最高君主として政治面で権力を行使する原則が一応出来上がった。しかしながら、その後も両者はことあるごとに対立、紛争し、ヨーロッパ中を複雑な闘争に巻き込んだ。

教皇がチェコ王を味方につけようと企むとき、重視されたのがヴァーツラフ兄王の妹アネシュカであり、彼女は政治の鍵を握る修道女になっていた。

修道会の創設者として、また王朝の精神的支柱として

チェスキー・クルムロフにある赤星十字騎士団修道院入口の紋章

教皇に許可され、アネシュカの修道院は「紅星騎士団」として成立した修道会となる。この騎士修道会は旧市街の西側に本拠を移し、17世紀には「聖フランチェスコ教会」が建てられた。今日でもその壮麗な丸天井は、ヴルタヴァ川の対岸からプラハ旧市街を眺めたときの重要なアクセントとなっている。

オタカル1世は世を去ったものの、アネシュカの一族の精神的支柱としての重要さに変わりはなかった。チェコ王位を継いだプシェミスル・オタカル2世の政治的成果はめざましく、チェコの国力は充実していった。7名の諸侯が選挙でドイツ王を選出するという体制、すなわち選挙候が確立するが、チェコ王がその一人として名を連ねることとなったのも彼の活躍による。

1270年代初頭にその領土は、チェコからオーストリアを越えて、現在スロヴェニア共和国のある地方にまで及び、帝国で並ぶもののない最強の諸侯となっていた。

死後に列聖されたチェコ史上に輝く女性

アネシュカの死後から彼女の列聖を求める声は強かったが、教皇とフランチェスコ会の関係が緊張していたことから容易には実現しなかった。ようやく1879年に福者に、さらに教皇ヨハネ・パウロ2世が彼女を聖人の列に加えたのは1989年。社会主義政権崩壊前夜の騒然とした時期であった。

列聖までの経緯には長年を要したが、チェコの歴史におけるアネシュカの存在の大きさに疑問の余地はない。新しい修道会の創設者として、またプシェミスル家の国家のためにも生涯にわたって貢献し続けた。チェコという国家がヨーロッパの中に地位を確立していった背景に忘れられない一人の女性である。

ヴルタヴァ川が氾濫した時には、修道女が真っ先にこれをかついで安全な場所に移したという。現在、創建当初の姿がほぼよみがえっているのは、近代になってこの修道院の歴史的価値が再認識され、多くの人たちがその復元のために多大な努力を傾けたおかげなのである。


列聖までの経過がどうであれ、チェコの歴史におけるアネシュカの存在の大きさには、疑いの余地はないだろう。新しい修道制の導入によってヨーロッパ最先端の理念をチェコに取り入れた功績は大きい。さらに彼女は自らその指導者として尊敬を一身に集め、そうして勝ち得た信頼をもとに、プシェミスル家の国家のために生涯にわたって貢献し続けた。チェコという国家がヨーロッパの中にしっかりとその地位を確立していった背景には、生涯を宗教者として過ごした一人の女性のこうした努力があったのである。

満足度:★★★★★


 

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