「同居」した人々、そして居なくなった人々

スロヴァキア人の形成

2006年刊中公新書

第1次大戦以降のチェコがそれまでと大きく異なっていたのは、スロヴァキアと合同で一つの国家を形成したことであり、共和国として生まれ変わってからのチェコには、中世以来のチェコとは多くの点で本質的な違いがある。

スロヴァキア人の祖先はスラブ系の人々と考えられるが、当時から「スロヴァキア人」という民族概念があったわけではない。彼らは10世紀に成立したハンガリー王国の支配下に入り、チェコやモラヴィアに住む人々とは別の歴史をたどることになった。後1000年の間、ハンガリー北部のスラブ系住民は、独自の政府組織も持たず、主に非特権身分としての生活を続けた。

チェコの場合と同様、彼らにも啓蒙思想の影響で芽生えた民族意識のもと、18世紀末頃から「スロヴァキア語」、「スロヴァキア人」の存在が主張されるようになっていた。

チェコ人とスロヴァキア人の合同国家、第一共和国建国

第1次大戦によるハプスブルク帝国崩壊で、独立を志向するチェコとスロヴァキアの間に、お互いに近いスラブ系の民族同士で連合国家を創る案が浮上した。独立運動の指導者で哲学教授マサリクらの努力により、連合国側の支持を得て、新しい形の国家が登場した。

「第一共和国」と呼ばれるが、しかし実際にはプラハ中心の中央集権的体制であったこと、チェコ人に主導権を握られたスロヴァキア人に不満が募り、チェコ人への対抗意識が強くなっていき、共和国政府の目指す姿は容易な実現を見せなかった。

第二共和国から独立国スロヴァキア、連合解消へ

ニューヨークに端を発した世界恐慌による1930年代の経済危機は、この国家にも深刻な影響を与えた。ナチス政権の介入に屈した英仏が1938年、対独宥和政策の頂点となる「ミュンヘン協定」を認め、「第二共和国」へ移行する。スロヴァキアでは独立の機運が高まり、1939年「スロヴァキア共和国」独立を宣言、ドイツに占領されたチェコとスロヴァキアは、大きく異なる体制の元で第二次大戦を経験することとなった。

1945年、共和国はいったん、以前の「第一共和国」の形で復活したが、この第二次大戦中の経験は、スロヴァキアにおいては、ファシズムに対して果敢に抵抗したという記憶が民族の誇りとして保たれ、また6年間とはいえ独立国を形成した経験が大きく心理的に残った。こうしてチェコ人とスロヴァキア人を一つの国家としてみなす方針は既に維持できなくなっていた。

1968年「プラハの春」の改革は、チェコとスロヴァキアの二共和国からなる連邦制の採用という成果を残した。プラハへの一極集中は変わらなかったが、正式に「スロヴァキア共和国」の存在が認められたスタートである。さらにこの流れを一気に進めたのが1989年末、共産党政権を崩壊させた体制転換、いわゆる「ビロード革命」である。結局、92年、両国首相の会談で連邦解体への合意が成立し、翌1993年、正式に両国は分離した。「チェコススロヴァキア」という国際的にもその名称が定着していた国家が、ヨーロッパの地図上から静かに消えていった。

ズデーテン・ドイツ人

チェコが一時、手を組んで共同で国家を担ったのがスロヴァキア人であるが、一方ではチェコから姿を消した人々もいる。ドイツ人である。

チェコの周辺部を取り巻く形のドイツ人居住地域は、モラヴィア北部の山地の名前を取ってズデーテン地方と呼ばれ、チェコに住むドイツ人はズデーテン・ドイツ人と呼ばれるようになっていた。ドイツ人は「チェコスロヴァキア共和国」においても実際にはスロヴァキア人より明らかに多く、総人口の内の四分の一近くを占めていた。

恐慌による経済危機はドイツ人地域の共和国政府に対する分離主義的主張を引き起こし、ヒトラーの介入でズデーテン地方はドイツに割譲されることとなった。チェコ人やスロヴァキア人が強制移住させられ、翌年、チェコがドイツの保護領となった経験から、チェコ人は殊の外、ズデーテン・ドイツ人の存在を祖国解体の原因とみなすようになった。

果たして第2次大戦終結とともにドイツ人に対する報復行為が繰り返される。ポツダム協定でドイツ人の「移送」が正式に定められると、1950年までの間に約300万人のドイツ人が去っていった。「郷人会」をつくり移民を受け入れた西ドイツは、「追放」の非人道性を批判し、東西冷戦の緊迫した状況の中で、両国間の対話を妨げる原因ともなった。

ユダヤ人

また、少数だが、チェコの歴史と深い関わりを持つのがユダヤ人である。彼らも第二次大戦後、この国からほぼ完全に姿を消していたが、プラハ旧市街のユダヤ人墓地、市内に点在するシナゴーグ(ユダヤ教の宗教施設)など、チェコやモラヴィアには、彼らの住んできた刻印が今なおはっきりと残されている。

ユダヤ人の出現は、チェコという国家の成立とほぼ同時代にさかのぼるほど長い歴史を有する。チェコやモラヴィアはドイツやフランスに比べれば、ユダヤ人が比較的安全に暮らせる地域であった。キリスト教徒と商売上で競合する度合いが低かったためである。中世後期に西欧各地でユダヤ人追放措置がとられると、彼らはポーランドやチェコ、モラヴィアなどの東側諸国にすみかを見出した。

保護と迫害のはざまで

16世紀以降チェコを支配したハプスブルク家もその財産に期待できる意味からもユダヤ人を保護した。プラハはこの時代には、ヨーロッパ最大のユダヤ人居住区を抱える都市の一つとなっていたのだが、一方で、キリスト教徒民に歓迎されざる存在でもあり、反ユダヤ人感情も高まっていった。

19世紀以降のヨーロッパではユダヤ人は根本的に違った人種で、本質的な他者であるという徹底的な差別感情に基づく反ユダヤ主義の風潮が強まった。こうした状況で、1918年に成立したチェコスロヴァキア共和国が画期的であったのは、世界で初めてユダヤ人を一つの民族として認める国家だったことである。

フランツ・カフカなどユダヤ系の人々によって生み出された文学は、まぎれもなくチェコという国の生み出した重要な文化の一つである。1930年代、隣国ドイツで反ユダヤ主義が高まる中、プラハは亡命者たちの拠点ともなった。

チェコという国は、この100年の間で大きく変貌した。そうした過程において、数々の、取り返しのつかない出来事も生じた。それは20世紀のヨーロッパ全体が経験した激動の歴史の一部であり、さらに大きく見れば、国民という単位によって構成される国際社会を築き上げていった近代世界の流れの一部でもある。チェコもまたチェコ人という一つの国民によって構成される近代国家へと変貌していった。

満足度:★★★★★


 

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