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幻のキリスト教国モラヴィア
国家の誕生といえど簡単な入口でなく
チェコの歴史の始まりは殊の外、難しい。
島国日本と違い、絶えず情勢の流動的なヨーロッパ大陸の、そのど真ん中に位置するがゆえに。本書からも、チェコの通史をとらえることの難しさが伝わってくる。時代を通して、チェコという国家が、民族・人々が、懸命に自らの起源を探そうとした、アイデンティティを求めていたことがよく分かる。
自然発生的に国家が生まれたのではなく、いずれの時点をもってして、国家の原始とするのか、その定義を外部や後世の歴史家が打ち立てることは容易でない。民族自身の問題であるから。
それだけに特に第1章は、一番、理解が難しかった。「物語」の始まりとしてはあまりにも複雑で、簡単に通過できる入り口ではない。民族が入り乱れ、曖昧模糊としたままで通過せざるを得なかった。整理しようと再読しても一筋縄ではゆかないが、未知の読者にも分かるような説明を努力してみたい。
キリスト教国モラヴィア王国の登場
東西ローマ帝国分裂後、生き長らえた東の帝国、ビザンツ帝国の力もほとんど及ばなくなったヨーロッパ中央部で覇権を築いたのが遊牧民アヴァール人であったが、今日のフランスからドイツにかけて支配していた当時、ゲルマン系フランク王国が勢力を強めた中で、この民族を討伐する。
フランク王国の東側に、これから征服されるべき広大な領域が開けたわけである。しかし、この領域にはアヴァール人に服属していたスラヴ人が住んでいた。有力だったのが、ドナウ川の支流、モラヴァ川流域に拠点を築いた一族で、モラヴィア人と呼ばれる。その版図は現在のチェコとスロヴァキアの境界付近に広がっていた。
ローマ帝国としてのフランク王国の勢力拡大は、すなわちキリスト教の拡大であり、この住民はすんなりとキリスト教を受け入れ、最初からキリスト教国としてのモラヴィア王国として歴史に姿を現した。800年前後のことである。
不安定な国際情勢の中で目指した真の自立
ところが、ドナウ川の上流にフランク王国、さらにこの頃、下流に勢力を強めていたブルガリア王国に挟まれて不安定な情勢に置かれるモラヴィア王国は、この地形ゆえに、国の安全と権力の確保のためには、政治的に独立すると同時に、キリスト教国としても宗教的に自立する必要があった。
すなわち、「キリスト教国として自立する」ためには、自前の司教を持った国になる必要があり、信仰を広める支援をローマ教皇に願い出て派遣されたのがスラヴ人の言葉にも堪能であったコンスタンティノスとメトディオスの兄弟であった。
有能なギリシア人2兄弟、とりわけ弟のコンスタンティノスの努力により、史上初のスラヴ語の文章語が確立したとされる。2人はさらにミサなどの典礼用語をもスラヴ語で行う粋にまで踏み込んだが、これには東フランク王国の聖職者らが激しく抗議した。神を讃えるための言語はヘブライ語、ギリシア語、ラテン語のいずれかであって、「スラヴ語派」は許されないと抗争したのである。
モラヴィア王国の崩壊と歴史の中の位置づけ
そればかりでなく、10世紀初頭、もともとウクライナ山脈方面に住んでいたとみられる半農・半遊牧民の強力なマジャール人がこの一帯に進出すると、モラヴィア王国は一瞬にして崩壊させられた。
この後、ドナウ川流域の大部分がマジャール人の建国するハンガリー王国の領土に、北東にポーランド王国が、そして北西のヴルタヴァ(モルダウ)川流域にチェコ王国が誕生するわけである。これら諸国はいずれもカトリックを全面的に受け入れた。
こうしてモラヴィア教会王国は消えたが、スラヴ語はブルガリアに場所を変えて生き延びた。ブルガリアやマケドニア地方では、古代スラヴ語によるキリスト教文化が開花している。
さらに、チェコにおいても、17世紀以降、2兄弟はチェコの守護聖人とされ、崇拝の熱が高まってゆく。近代になってチェコ人やスロヴァキア人の間で、自分たちはスラヴ系の民族であるという意識が広まった。スラヴ語によるキリスト教文化は、自分たちの国で生み出されたという自負が強まったわけである。
チェコとスロヴァキアの共通の祖先として位置づけられたモラヴィア王国であるが、時としてチェコ人に都合良く解釈されている面も実際にはある。歴史的にも未解明な部分が多く、その国家の強力であったことは、第2次大戦後の発掘調査で立証されたばかりである。
9世紀に彗星のように姿を現し、100年と経たないうちに忽然と消えていったモラヴィア王国も、歴史の中でかなり特異な扱いを受けることになった。実はこの国は名称が一定していない。
・・・(中略)・・・
呼び名はともかくとして、もっと重大なのは、この国がチェコとスロヴァキアの共通の祖先として位置づけられたことである。すなわちモラヴィアは、後のチェコとスロヴァキアの境界にまたがっていたことから、チェコ人とスロヴァキア人がかつて共存していたことの証として、19世紀以降、しばしば引き合いに出されることになった。
満足度:★★★★★
2007-07-29


