リテラシー論

上農正剛(2003年刊 ポット出版)

2008/10/13,28 第4章第12,13節読了、2008/10/28メモ

手話、書記日本語

たったひとりのクレオール―聴覚障害児教育における言語論と障害認識
たったひとりのクレオール

「リテラシー論」と題された第4章では、リテラシー問題、読み書き能力の習得を議論する際の前提条件を明確にしておくこと、その上で手話や書記日本語の獲得といった教育実践のあり方、その問題点や課題を考察してゆく流れとなっている。

教育現場では聾教育におけるかつての主流であった聴覚口話法が必ずしも望ましい成果を果たせなかった反省から、手話に対する再評価が高まっている。いわゆる「バイリンガル教育」と呼ばれるもので、まず、日本手話で基礎言語能力を身に付け、その手話を元手に書きことばという別レベルの言語に移行させるという考え方である。

日本手話が日本語と異なる独立した言語であること、独自の「ろう文化」を評価することとも相まって、概して当事者の(成人)聾者に支持されている考えである。とはいえ、実際に一斉に切り替わることも難しく、教員の間で、また何よりきこえない子を持つ親や聾者自身になお聴覚口話法を支持する立場も根強い。

教育法をめぐる議論は絶えず、往々にして激しい感情論に展開する、それくらい深く難しい問題である。

バイリンガル教育を支持するけれども一面で危惧も抱いている立場という著者の、その際に紹介されているリテラシー方略、まず「言語」の問題を考える時の言語思想、言語学の解説が非常に興味深かった。

言語学分野で今世紀、最も影響力ある理論を提示したチョムスキーの考え方が詳しく説明されている。すなわち、人間の脳内に備わっている「言語機能(language faculty)」がどのような言語にも対応できること、これを元手に→「言語能力(competence)」を作り上げてゆき→現実の中で出力する「言語運用(performance)」という流れ。その過程における入力として、文字や手話という視覚を経て入力される情報、また音声として聴覚から入力される情報、出力の側では音声(話し言葉)や手話として、また文字(書き言葉)として発現される。この図解がとても分かりやすい。

リテラシー教育の目的

また著者が繰り返し強調するのは、リテラシー、学力を身に付ける目的が何か? ということ。これまでの章でも触れられた、なぜ勉強するのか? と同じで教育の本質を問うものである。

きこえない子がリテラシー、学力を身に付けることは、それだけで途方もない労力を要する、困難な作業であるけれど、それだけに、かえってそのことにだけ囚われてしまう嫌いも生じやすい。

学力のある、勉強のできる子のはずが、高校、大学へと進学した後にアイデンティティの崩壊を引き起こすこと、また、本書では触れられていないけれど、その先の、社会に出てからのさらに厚い壁は、きこえない者には共通する関門である。

ペーパーテストで計られる成績、資格試験、入社試験・・・ならクリアできる。けれども、それ(ペーパー)と現実社会は全く別物。板書もなければ、通訳による情報保障もない。あらゆる場面でほとんど全てが口頭での情報伝達で行われる講義や友人との付き合いや仕事の交渉や・・・。仮に学力があってもそれを活かす前段階に大きなバリアが控えているから。

堅固な思考とアイデンティティを築くために

そのためにも、きこえない子の場合、勉強することの、リテラシーや学力を身に付ける目的の確かな把握が必要とされるのだが、著者の説く、聾教育が絶対責任を担わなければならない事柄として

一つは書記日本語(リテラシー教育)。書記日本語による学力や思考内容の理解力と提示力の育成。

もう一つは聾児が自分のアイデンティティを支える時に必要となる論理的思考力としての学力。聾児は「聞こえない人間」として、自らの価値を理解し、誇りを持ち、それを守らなければならない。と同時に、聴者の異文化に対し、その価値を理解(異議申し立ての実践的能力も含め)、尊重できるだけの「他者」理解能力を持たなければならない。この困難な知的作業を支えるための論理的思考力こそが教育の中で培われなければならない。

僕自身、思うに、学齢期に限定されない、生涯にわたる困難な問いであり、格闘である。

先の教育論をめぐる論争が一筋縄でゆかないのも、こと「きこえない」障害はアイデンティティと密接に結び付いている、不可分の、特にこの点が他の障害と決定的に異なるものであるゆえ。「ことば」を介して、言語を通じて人が人となる、人として生きてゆくときに出くわす様々な壁。「なぜ聞こえないのか」という根源的な問い、あらゆることがアイデンティティに帰結するといっていい。

言語はその人の感情と思考の成り立ちに深く関わっている。このことの意味を正確に理解している者ならば、「言語」の問題がその人のアイデンティティ(自分の存在価値に対する自己確認)にも抜き差し難くかかわっていることは即座に了解するだろう。その意味で、聞こえない子どもの教育の根底にあるのは、結局、どこまでいっても「言語」の問題なのである。

社会の不条理さを認めさせられつつ、それでもなお自分が生きてゆくことの価値を見いだすこと。映画「名もなく貧しく美しく」のときから時を経ても、この障害の本質は変わっていない。

満足度:★★★★


 

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