私たちは本を読まなくなった

上農正剛(2003年刊 ポット出版)

2008/10/12 第3章第11節読了、2008/10/12メモ

物語の魅力は「差異の徴」を持った別世界の住人

たったひとりのクレオール―聴覚障害児教育における言語論と障害認識
たったひとりのクレオール

いつしか章単位でなく節ごとのメモが綿々と続いている。第3章終節の本節は「難聴児と読書」について著者が講演したもの。

世に読書論は絶えない。文章論、仕事論、整理論・・・の類のビジネス書、ハウツー。僕もこれまで好きで読んできたが、本節のわずかに10頁の分量ながら、名だたる読書論に匹敵するほどに深く含蓄あふれる言葉で綴られている。

本書を読み進めていると、その論の根拠や他分野にまたがる学問の引用、参照が脚注のおそろしく詳細で誠実な点からも、筆者の膨大な読書量、学習量というのを容易に知ることができる。昨今の簡単に読める薄っぺらい新書類と違って、強い説得力を持つ所以でもある。

ボーダー(境界)に生きる上での「変容」

ここでは「読書=知性」という教養主義という観点でなく、また「本を読む子=成績の良い子」という幻想を捨て、読書の魅力、楽しさをまず再認識することから始め、こと「特別な場所」で生きている難聴児にとっての読書の重要性を説いている。

<聞こえない>人間でありながら<聞こえる>人間の世界での共生を目指すという意味で、難聴児という生き方には、その存在の仕方そのものに、本質的に、そして本来的に「二重性」、「境界性」がある。このことが難聴児に様々な存在論的な悩み、苦しみをもたらす。そのような困難な状況の中で、それでもその難聴児が「自分であり続けながら」生きていくためには、人間存在の二重性や境界性ということの意味を深く理解し、肯定できるような<世界観>が必要である。難聴児は、自分の中にそれを自分の手で粘り強く育てていかなければならない。

言葉を覚えるため、という技術的なことでなく(それもあろうが)、何よりも読書の本質である、「自分が何者であるか」「本当の自分になるには」「そのために自分が何と戦わねばならないのか」を学ぶためにこそ、聴者と同じ条件下、環境下で生きていく時、絶えず「聞こえない」という自分の障害(差異)を自覚させられて自分の居場所(アイデンティティ)を確保できずに苦しい問い、迷い、困惑の中で生きる難聴児には読書が必要である。

これまで僕がメモし続けてきた際に問うてきたように、自己の障害観をきちんと認識するためにも、読書を通じての深い世界観を身に付けることが何より求められる。身をもって実感していること。読書を通じて考え抜く中で得られるものが、つくられてゆく自分が、生きる上での様々な場面で力を発揮する。成長しても大人になっても、ずっと読書という行為から学び続けねばならない。

本当に短い分量ながらも読書の本質をあらためて気付かされた。このところ本が読めていない、技術書、実用書・・・ばかりでなく、腰を落ち着けて思索できる本をもっと読まねばと思う。

難聴児は「聞こえない」という自分の障害に抗うという意味で<自己>と戦いながら、そして、その<自己>を他の誰でもない自分自身が再び深く肯定していくという意味で、自分を救い、認め、支え続けながら生きていかねばならないだろう。


読書という習慣が難聴児の中で本質的なものとして育ち続けたならば・・・自己と世界の関係について深く考えながら生きていくだろう。もしかしたら、そのささやかな思索の努力が難聴者として生きる苦しみや不安、不全感をいくばくかは癒し、軽減してくれるかもしれない。そして、その持続の中から、彼は自分の「障害」の意味を自分なりに理解し、把握するかもしれない。さらには、そこから何がしかの「納得」や「自信」「誇り」を見出すかもしれない。

満足度:★★★★★


 

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