きれいごとでなく

上農正剛(2003年刊 ポット出版)

2008/09/23 第3章第10節読了、2008/09/23メモ

障害に対する無意識の否定的感情

たったひとりのクレオール―聴覚障害児教育における言語論と障害認識
たったひとりのクレオール

本節は著者が行った難聴児を持つ親の会への連続講演を踏まえ、母親に宛てるメッセージとして会報へ別稿の形で書かれたもの。

聴覚障害児教育の問題を考える上での要点は、親が障害をどうとらえているか、親の障害「認識」であり、これが全ての問題に先行しているのだと説く。これは当然のことで、障害児に限ったことではないだろうけれど、特に聴覚障害児の場合はアイデンティティの確立の容易でないこと、心理的葛藤が深いという点からも、親の価値観が子の生き方、自己認識、アイデンティティに多大な影響をもたらす。

親は必死で子に勉強をさせようとする、あるいは聞こえないことに代わる「何か」を身に付けさせようと躍起になる。そこには、親の価値観の中に障害を別のもので埋め合わせたい、否定したい、隠避したいという無意識の願望がある・・・と書かれているが、この点も引っかかるところで、そこまで単純に、子を叱咤激励することが、障害の否定という感情に基づくものと結び付いているものではないだろうと思う。

障害の有無にかかわらず、親が子を、あるいは子自身が、そもそも人間というものが、マイナスはマイナスとして認め、プラスを伸ばしてゆこうとするのは当然のこと。全知全能を授けられているのではないのだから、限られた資質、能力に注力する、させようとするのは何ら咎められるものではない。単純に障害への否定嫌悪の感情が意識の底にあるわけではないだろう。

正直な感情を認めてからの再出発

ただまあ、著者のいいたいことは、往々にして障害児(者)は「普通の子に負けないように」という思いが強く埋め込まれている、ということ。僕もずっと以前に「名もなく貧しく美しく」でも述べた。それを支えるものが障害への否定嫌悪というほどの極端さはなく、この点はいったん置くとして、さらに一歩進んだ意識の根底に「障害に対する否定的感情を持ってはならない」とする、いわば否定の否定? となる表向きの強い社会通念があるからだ、という点はうなずける。

思うに、これは世間の風潮にもよるところが大きい。マスコミが障害児(者)の姿を何かと美談に仕立てあげる傾向がある、障害者本やドラマがたいてい、障害を乗り越えてゆく「立派な」ものであるから、それが当たり前の「社会通念」として親も子もその期待に応えようとする、応えないといけないのだという感情が無意識に刷り込まれてゆく。こうした「空気」の中では障害に対する否定的感情や嫌悪感は素直に表明できない。「持ってはならない」ものとして、常に胸の奥に隠避され、圧し殺され、ごまかされてしまう。

人間の感情の中には否定的感情や嫌悪感が必ず存在するもので、根源に差別する心、蔑視、賤視する気持ちを持っていることも認めないといけない。障害は何も恥ずかしいことでない、否定されるものでない、という表面的に都合のいい言葉だけを頼りにした生き方はあやうい。

もちろんこれは人間の差別心や蔑視観を弁護するものでは決してなく、なぜそういう思いが生じるかということを、一人一人が考えないといけない問題である。共通の解があるわけではなく、一人一人が内面を掘り下げて覆いを取った「私」を見出し、そこから粘り強く自身の価値観、障害観を修正し続けてゆく。

ある意味では先の美化された考えに乗った方が楽である。自身の負の感情、実は卑しく狡く虚栄心の張った暗い心の内面を深く掘り下げることなど避けたい、見ないで済ませたいものだから。

きれいごとでなく

前々回、僕が、他の同障者がどういう思いを持っているか知りたい、無意識にあるものを知りたいと述べたけれど、これを各自が語ることは本当に容易なことではない。本節にも次のようにある。

自分の意識の根底にある障害観を見つめてみることの大事さについては触れましたが、しかし、これはある意味で精神的苦痛を伴う、かなりつらい作業であることも事実です。なぜなら、この作業は「障害」という現実に対する自分自身の無意識の領域を掘り起こし、それを一つ一つ意識化(言語化)していく作業だからです。日頃は気付かないふりで済まされている「見たくない自分自身の本当の気持ち」とも対面しなければなりません。

(中略)

このような困難な努力をするより、世間に流通している紋切り型の「常識」や「通念」に合わせて身を処した方がずっと楽であることも確かです。

また、本節の最後の締めくくりがいい。「奇麗ごとならどれだけでも言えますが」と断っているとおり、本当に「きれいごと」でごまかされてしまいやすい問題である。

一人一人にとって、聴覚障害児と共に生きていく日常という赤裸々な現実は、実際は小さな喜びと、そして繰り返し訪れる落胆、不安、自信喪失、失望の綴れ織りなのではないでしょうか。

まさに僕自身もそのとおりで、何度でも繰り返されてきた、そしてこの先も途方もなく繰り返されるに違いない「落胆」「失望」「自信喪失」の待ち受けていることを今でははっきりと自覚している。経験を踏んでも、覚悟していても、遭遇する度に傷付くものである。

それでも「小さな喜び」に出会うために

その現実の中で、焦らず、そして決して諦めず、一人一人、自分の綴れ織りを大切にしながら、丁寧に、ひと織り、ひと織り、織っていきましょう。

満足度:★★★★★


 

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