「受容」から「認識」へ

上農正剛(2003年刊 ポット出版)

2008/09/13 第3章第8節読了、2008/09/13メモ

障害観の問い直し

たったひとりのクレオール―聴覚障害児教育における言語論と障害認識
たったひとりのクレオール

本節で提起されているように、僕自身、障害「受容」という言葉を特に問題があるという疑問も持たずに無自覚に使ってきた。試しに「受容」をこのサイト内で検索してみたら4件。もっと使っているかと思ったが・・・。

受容
「受容」のサイト内検索結果

とりわけ聴覚障害者にとって自分の障害を認めること、「受容」は非常に大切なステップである。というのも、まずたいていの聴覚障害者が初期段階では自分の障害を認めにくい、目をそらし、頑なに拒否しようとする性質のものであるから。これは聴覚障害が目に見えず、隠そうと思えば隠し通せること、障害がひとたび明らかになった時の周囲の対応が嘲笑や蔑視や・・・になりやすいものであること、仮にそれがなくても、何よりコミュニケーションを通して仲間や集団に属せない立場に置かれることを避けたいがゆえに、他の障害以上に顕著に表れる傾向である。

学校や職場にとどまらず、友人、恋人、あるいは家族(配偶者)に対してまで自らが難聴者であることをカミングアウトできずに悩み続ける人は本当に多い。できれば「知られたくない」というのは人として自然な感情であるから、認められる人よりも、一生、「受容」に苦しむ人の方が案外、多いかもしれない。

けれども、確かに「受容」という言葉は受動的、他律的なものであり、捉え方によっては、そこには受容させようとする側、すなわち「聴者が」という主体の存在と、障害ゆえの不便、不平等を堪え忍べ、という「命令、あるいは期待」が言下に存在することを前提とするものになってしまう。

そしてまた筆者が指摘するように、残存聴力の活用と口話教育が少しでも「きこえる」人に近付くことを目指している一方で、「受容」という言葉で「きこえない」ことの自覚を求めるというのは、全く矛盾した対応となっている。これでは子どもたちのアイデンティティも分裂して、ますます困惑してしまう。

背負うのでなく自ら一歩、近付く

そこで障害「受容」でなく、全く別の視点を持った考え方としての障害「認識」とする概念を提起する。

言葉の入れ替えくらいで・・・の思いもある一方で、言葉の意識的な使い方、使い分けの効果も確かに大きい。「受容」では障害という負を背負わされている、負担というイメージがある。「負」という言葉自体に既に否定的な性質を伴う。

一方で、「認識」という言葉はあくまで自らの主体的な行動を要求する。「障害」に自分から一歩、近付いてゆくのだともいえる。背負わされているのではなく、どう「認識」するかは自分次第だという自由、責任、自覚を伴う。結構、大きな意識の変換になる。

もちろん、言葉の違いで全てが解決出来るわけではない、自分のことでなく、周囲を客観的に見てもやはり、聴覚障害というのは大きな困難を背負っているものだという見方は変わらない。人は誰しも何かを背負っているなどという甘ったるいものでなく、言葉を通じて人が人となり、社会の中で認められてゆく時、本当に大きな壁であり困難である。

そうした限界を自覚しつつ、より主体的な言葉として障害「認識」という言葉を使うことで変えてゆけるべき意識は変えてゆくことができるはずだ。

強靱な論理で粘り強く

ところで、僕自身がこうしてブログの(という以上に人生の)中核となる課題として自身の障害、生き方を考える時、非常に興味があるのは同障の他者が同じことをどう考えているか? どういう思いを抱いているか? ということである。身体的欠損というより、「人」として生きる上で様々な困難にぶつかるこの障害、自らの中に何らかの確かな線、方向を持たねば生きてゆけない。

その意識、あるいは無意識の価値観を知ってみたい。けれども、それはいうほど容易に語れるものではない。本書では別の文脈で使われているのだが、「よほど強靱な論理と整備された思考方法で粘り強く考えていかなければ」明晰に把握・分析することは難しい。

時に高校生のブログに、そうした悩みの格闘にぶつかることがある。同級生が学校生活での恋や友情や・・・の青春を謳歌している、人生で一番、多感な年頃に、自らの障害ゆえのそれらに染まれない欠落感に嘆き、また言いしれぬ将来への不安におびえる心情の吐露には胸が痛む。

辛いだろうけれど、決して無駄なことでない、正面から見据えようとする勇気はこれ以上なく讃えられるものだし、僕も精一杯のエールを送っている。


 

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