潔い諦観と賢明な妥協

上農正剛(2003年刊 ポット出版)

2008/09/14 第3章第9節読了、2008/09/20メモ

問題の根本は土台をどうつくるか

たったひとりのクレオール―聴覚障害児教育における言語論と障害認識
たったひとりのクレオール

「聴覚障害児教育における障害認識とアイデンティティ」と題された第9節は講演をもとに加筆修正されたもの。基本的に前8節で述べられたことが繰り返されているが、関係教職員他を対象としているようで、聴衆に向けてより現実的具体的に語りかけている話しぶりが紙面からもよく伝わってくる。

いわく、聴覚障害児教育の根本の問題は「障害認識」であり、このいわば地中の「土台」なくして、いくら個々の教育実践、対応方法という地上の家を建てようとしても、それは非常に脆いものだ。どうやって言葉を教えるか、学力をつけさせるか、聴者並に(あるいは聴者に負けずに)させるかといった教育や日常生活や、の方法論の是非を問うのでなく、まず何よりも自身の「きこえない」という障害に対する価値観、人間観こそが根底の支えになるものだ──そういうふうに解していいだろうか。

前回、僕が述べた「同障者の自分の障害に対する思いがどんなものか知りたい」というのもまさにこれで、各人がそれぞれの障害をどう「認識」しているか、それが生き方の全てのベース、指針になるものだから。

違和感も

ただ本書が賛否両論に分かれる(=聴覚障害を論じるとき、教育にしろ、医学にしろ、正否を争う議論が必ず起きる、それ程、この障害の一筋縄でゆかない難しさを表している)ように、やや極端な理想論に振れすぎているのではないかと思える点もある。

例えば本節の最後、

私たちが聞こえないという身体的状況に対し、根本の価値観の部分で、それを「劣ったもの」「駄目なもの」「治すべきもの」と見なしている限り、どのような実践を試みたとしても、その結果として、本当に意味のある成果は生み出すことはできないだろうと思います。

障害を持つ当時者には一見、心強い言葉であるようでいて、けれども、この考えを額面通りには肯んじられない。

そう見なさないこと、すなわち、聞こえないことが「優れていて」「立派な」「治さない方がいい」と思える人は稀である。本書でもまず、先のように考える親の考え方が間違っているのだ、と指摘されているが、きこえない子を持って、こう思える親がどれだけいるだろうか?

聴者の親は無論、聾者としてアイデンティティの確固とした夫婦でさえも生まれてくる子は聞こえた方がいいと切実に願う、私たちの味わった苦しさを二度と味わわせたくない、願わくばこの子に外界(聴者社会)との仲介を果たせるようになってほしい・・・等々の思いは強いときく。

先の論理であれば、きこえないことはもはや「障害」ではない。筆者自身もこの言葉を否定すると明言していることは頷けるのだが、ならばそこに特別教育も障害者手帳に基づく各種の支援も福祉サービスも不要でいいことになる(折しも、不正取得のニュースが賑わわせている昨今である)。そうであれば、過去の、あるいは今でも途上国がそうであるように、聴覚障害者は劣悪な環境のままで放っておかれるのではないか。

僕自身は補聴器を付けていない、全くの無音(全聾状態)なのだが、補聴器を付けて多少でもきこえを補う聾者は多い。むしろ、そちらの方が普通である。特に学齢期にはそれが1%でも0.1%でもわずかの情報が入れば言葉も学力も身に付けやすいし、日常生活のあらゆる面で有利である。音のある状況が本来の世界なのであるから。情報を制する者が得てして仲間の中でもリーダーとなる。音のある(=本来の)世界にできれば近付きたいと思うのは、親ばかりでなく、当事者たるきこえない子にとっても当然の考えである。

親思う心、子を思う心

僕自身が子を持たない立場であるけれど、さらに違和感のあった箇所。専門家(医師、教師)が障害を「治してあげよう」、親も子に対し「治ってほしい」とするとき、その視線が「今のままでは駄目だから改善されないといけない」という障害のマイナス評価を固定してゆくのだという。その影響が子にも及び、マイナス評価の刷り込み(インプリンティング)によって否定的自己像を形成するという。

果たしてそんなに単純なものだろうか? 「治そう」とすることの前提が必ずしも「駄目で」「劣った」ものではないはずである。親も「治ってほしい」とは思っても、我が子を「駄目で」「劣った」ものとは決して思っていないだろう。また、専門家の視線に影響を受けるにしても「そうか、僕はこのままでは駄目なんだ。治してもらわないといけない身体なんだ」と思い、さらなる親の愛情に対して「自分が今のままでは駄目なんだ」という風に感じるだろうか。決め付け過ぎられた思い込み、曲解ではないか。

人の親ならどんなことをしてでも、自分の命と引き替えにでも、我が子を救おうと思う。障害を持った人は皆、経験してきていることと思う。たいてい親の方が狼狽するけれど、親もいつか現在の医学ではこの障害の治すことの難しさに気付くし、東奔西走、治療を求めて駆けずり回る親よりも案外、子の方が早くに「自分の耳がきこえないこと」「他の子と自分が違うこと」という覚悟を定めているものである。

「お母さん、治らないんだよ」「治らなくていいんだよ」と子の方が気付いている。でも、その親の愛情も無駄にはならない。親の愛情は充分、伝わっているし、「耳の障害が治ってほしい」という願望がかなえられなくても、親の注いでくれた愛情それ自体に応えて子は生きてゆくものだから。

僕が研究者でないから甘く見ている点もあるのかもしれないが、少なくとも聾者、聾児(もちろん難聴者、難聴児も含めて)をこれまで見てきた、接してきた限り、親や教師の愛情をたくさん注がれて、本当に心の素直な子が多いと感じる。障害を持たない「普通の」子らよりはるかに。

単純に「否定的自己像の形成」となる論理に違和感を覚えた訳だが、批判が感情的に流れるのも慎まないといけないだろう。おそらく僕が思うようなことも著者は承知の上で、やはり教育学的見地に基づく情熱で強めに警笛を鳴らしているのだろうから。

不利を認めて

確かに、きこえない者が自分の障害を認め(受容、より適切には認識)、アイデンティティを求めてゆく過程で、一時期、先の論理を味方に大いに力強くなれる段階がある。きこえないことは素晴らしい、何も否定しなくていいのだ・・・と。けれども、それは多くの者が一度は通過する道でも、その論理だけで長続きはしない。若い時はよくても、現実の社会の中で生きてゆく時、それだけではやってゆけないことに気付かされるのだ。

僕自身が考えるには、「劣ったもの」「駄目なもの」「治すべきもの」という考えも一理ある、と認めておく。その逆も然り。でもいずれかの極端な論理には走らない。

きこえないで生きてゆくことは圧倒的に不利である。このブログでも繰り返しているように、社会に出る=人と交わる=仕事を通して一員となる、認められるときの不利は大きい。不利益がどこまでも付きまとう。そして、また、何より、職場でも家庭でもあらゆる場面で、コミュニケーションのとれない不全な状態に置かれていることは人間として本当に苦しい。

そうした不利を認め、その中で、でも生きること。劣った、駄目な、不利な・・・それもあろうと時に流されることもある、抗うこともある、その両方の中で、苦しいけれど、自分の道を小さな空間を見つけてゆこうと探るしかない。

潔い諦観と賢明な妥協

妥協かもしれない、でも人生は白黒の明らかなきれいなものでなく、常に、両者に振れるような、引き裂かれるような、どっちつかずのものだ。「妥協」という言葉はどちらかというと諦めを意味するような性質を帯びるけれど、そうでなく、考え抜いた上で落としどころを自らが積極的に付与すること、と捉えた方がいい。確かに諦めも時に(この障害は「時に」以上に・・・)必要となる。

先の論理も否定するものではない。それもひとつの「認識」である。ぶれないで生きてゆけるならそれも立派だが、僕自身は自分でも「考え」「迷う」タイプなので。何しろ羊なのだから。これも宿命かもしれない・・・。

「賢明な妥協」といったのは竹田青嗣だったか。今、思えば僕がずっと昔に共感していたのも、この人も在日というマイノリティ、アイデンティティの苦しさからの深い考えがあったゆえだろう。「諦観」と「妥協」、より納得するために言い足すなら、潔い「諦観」を持ちつつ「賢明な妥協」点を探ってゆく、といったところだろうか。

自分を取り戻していくという作業がどれくらい難しいことなのかを知ることが何より大切だろうと思います。

自分を取り戻す作業はその人の中でまだ続いているのかもしれません。現実の中では、まだいろいろ悩んだり、苦しんだり、理不尽な体験をして辛い思いを味わっていらっしゃるかもしれません。考える人ほど、そうなのではないでしょうか。何をもって「立ち直る」というかが問題ですが、そばで見ていても、「立ち直る」ということが、そう簡単なことだとは私には思えません。


しかし、そのような大変困難な道を、自分をごまかさず、頑張って歩き続けている人たちもいます。それは簡単に口で言うことの出来ないくらい苦しい道でしょうけれど。

満足度:★★★★


 

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