人生はただ一問の質問にすぎぬと

上農正剛(2003年刊 ポット出版)

2008/08/02 第2章第5節読了、2008/08/03メモ

学力と言語力の習得

たったひとりのクレオール―聴覚障害児教育における言語論と障害認識
たったひとりのクレオール

第1章終節と第2章以降とで、この障害の根源にある学力問題とそれへの対応について著者なりの考えを提示している。今度は一転、大いに力付けられる内容で、それまでの辛辣な現状評価もこの展開を有効にするためであったかと納得させてくれる。

聴覚障害児にとって何より優先すべきは学力と言語力の習得であり、それは単に健常の子どもらに比べて言葉を覚えること、学力を高めることに顕著なハンデがあるからという以上に、聴者と同化することを期待する親の願いに基づく勉強の仕方(させ方)が子の心理に深刻な影を残してしまうのだと警告する。

聾者・難聴者であってもペーパーテストや学歴や・・・だけなら人一倍の努力で聴者に遜色ない成績を収めている場合もある。ただ「学校」時代には暗記力でしのげるものでも、本当の思考力、論理力に裏付けられたものと限らない、そこまでを著者が念頭に置いている、という点で非常に興味深い。

差別的状況と助け手のいない社会を生きるために

以降、きこえない子にとっての勉強の目的についての前提と、その上での目的の理解という点に著者の一番の力が注がれているだろう、非常な迫力と説得力とを持って論じられている。

どんなに社会がやさしく親切なものであるようにみえても、聞こえない子は将来、必ず差別的状況という困難な現実にぶつかる。偏見、理不尽な対応、不公平、不平等・・・、どれだけ福祉が整っても、「理解」を口で述べても、「きこえない」ことからくる圧倒的な不利益、不平等の現実は変えられない。

そして、基本的に他人はなかなか助けてくれないものだ、という現実。特に社会に出れば、学校で味わうようないじめがない代わり、積極的に支援や手をさしのべてもらえるようなこともない、一種の無関心(実はこれがきこえない者には一番、しんどい)の状況に投げ出される。冷たいようでいて、誰しも自分自身がそうであるように、それが人間の限界であること。

その前提のもとに、まず自分を自分で守る力、自助能力を身に付けねばならない。それには多数派(マジョリティ)である聴者の文化を冷静に知らないといけない。マイノリティの自らの文化だけを強固に主張しても認められない。異文化の価値を冷静に理解して、粘り強くこつこつと現実の改善策を提示してゆく、根気と知的勇気と志の要る作業である。

なぜ自分はきこえないのか

一方で自分を内側から支える力、きこえない人間としての自分の価値を自分自身に説明できる作業、すなわちアイデンティティを確立させるためというのがもう一つの勉強の目的となる。

「なぜ自分だけがきこえないのか」

きこえない者が誰しも必ず嘆き悲しみに暮れる(という生やさしい表現では到底、いい表せない)、根源的な問いにきちんと向き合うこと。誰も解を与えてはくれない、どこにも解はない、その非常に困難な問いに応える時に本当の学力、言語力が必要になってくる。

きこえる人間と同じようになるためでは決してなく、きこえない人間が立派なきこえない人間になるためにこそ、ただ、その目的のためにだけ、しっかり勉強しなければならない。

きこえることが前提の社会にあって、きこえていれば特に不自由を感じることもない平和な世に、けれどもきこえないがために不条理な苦しさを味わう中で、冷静に自分を説明できること、周囲に働きかけられること、そして自分を支えること、そのために思考力と論理力に裏付けられた学力と言語力を身に付けてゆかないといけないのだ。

アイデンティティの確立のために

「なぜきこえないのか」「なぜこんな苦しい思いを味わわないといけないのか」・・・。僕もこのブログに時々、記してしまう。言ってどうになるものでないと分かっていても、永遠の根源的な問い。

また僕自身、「アイデンティティ」という問題をよく持ち出す。十代の若僧でもない、いい年をして・・・という向きもあるかもしれない。そもそもアイデンティティや自分探しなんていう言葉は揶揄されやすいものであることを承知で、それでも僕は考えてしまう。映画監督新藤兼人氏が90歳を超えてなお「自分とは何者か」を問い続けていると知って励まされたせいも大きい。

著者が述べているように、また、先日、「悩む力」を読んで僕もあらためて考えさせられたように、目をそらさず「きちんと向き合う」のは本当に苦しく困難な作業である。

それだけに、著者の力説は僕にも非常に力強く響いてきた。本書は子どもへの教育を論じているものだが、最初に書いたとおり教育に限定するものでないと拡大解釈させてもらえれば、今、僕がこうしてブログに綴っていることも肯定できることとして捉えていいのでないか。永遠の問いというように、きっとこの問いから解放されることはないだろう、真綿で締め付けられるように将来はもっと苦しくなるかもしれない、それでも・・・。

もっと楽しい話題の多いブログがいいに決まっている、障害があっても明るく前向きで・・・という世間の期待に応えようと演じるのでは決してなく、弱みやずるさや醜さも見つめながらの問いを考え続けること。

人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ

寺山修司


「なぜ私だけが他人と違っているのだろうか」

きこえない子どもたちは、この誰にも簡単には答えることのできない根源的な問い(質問)を胸の底に秘めて日々を生きています。これはある意味で非常に困難な問いであり、それにきちんと向き合おうとすれば、そこから根本的な深い苦しみや悩みが生じてくる厄介な問いかけです。場合によっては、精神的な危機状態、アイデンティティの破綻・崩壊という状況を呼び寄せてしまうような根源性を孕んだ苛酷な問いかけです。


しかし、「優しさ」が至るところで求められ、「癒し」がそこここに充満している現在の日本社会のような精神風土では、このような苛酷な問いかけに向き合うことは避けられがちです。障害児のいる世界でも、たとえ「憐れみ」「善意」「思いやり」「優しさ」という対応は至る所にあふれていても、このような根源的問いに対してはほとんどの場合、無視、意図的な回避、隠蔽という態度がとられています。


しかし、私はこのような問いをこそ、聞こえない子どもや青年たちには大事にして欲しいと思っています。なぜなら、この最も苦しく困難な問いこそが、私というものが存在していることの意味(価値)について考える際の唯一のしっかりした手がかりであり、出発点になるからです。別な言い方をすれば、そこが自分のアイデンティティを考える本当の入口だからです。この根源的な問い、つまり「ただ一問の質問」に対する自分なりの答えを発見するために、一人の人間の中で「考える」という作業が本当に始まるのだろうと私は思います。

満足度:★★★★★


 

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