頑張っても、頑張っても

上農正剛(2003年刊 ポット出版)

2008/08/02 第1章第3節4節読了、2008/08/02メモ

聴覚口話法、インテグレーションの再考

たったひとりのクレオール―聴覚障害児教育における言語論と障害認識
たったひとりのクレオール

読み進むに連れ次第に著者の主張が明らかになってゆく。第3節「聾学校の在籍生徒数はなぜ減ったのか」で聴覚障害児教育の本質的問題に切り込み、続く第4節「混迷と転換の季節の中で」で現在の(=本書刊行当時の)聴覚障害児教育を取り囲む問題(の良し悪し)を紹介して第1章を締めくくっている。

著者の主張とは従来の主流であった(という以上に絶対に間違いないと信じられてきた)音声言語習得を目指す「聴覚口話法」やインテグレーションへの疑問、再考の姿勢を示すことである。

これら「聴覚口話法」やインテグレーションの弊害を並べ立てて痛烈に指摘している、「壊滅的状況」とまで酷評されている段になると、それらを直接には経験していない、是々非々の立場で読んでいるつもりの僕でもさすがに反発を覚える。前回も記したように、親にしろ本人にしろ、この障害との苦しい格闘の中で懸命に生きてきた、そうせざるを得なかった過去について一刀両断、ばっさりと否定しきっているような感があるから。

教育方法に問題のあることは認めている、成人した聾者、難聴者が自分の受けてきた教育を振り返ってみて、仮に支持できるものでなかったとしても、幼少年~青春時代の学齢期を否定されたのではたまったものではない。良くも悪くも聴覚口話法を受けてこなかった聴覚障害者など皆無であろうし、インテグレーションもまた然り。

聾学校は不要になっているのか

ところで第3節の「聾学校の生徒数が減っている」現状について、このページを丁寧に読んでくれているあなたはどう考えるだろうか?

事情を知らない人にしてみると、(少子化という点はとりあえずおくとして)医療の進歩で聾という障害を持つ子が減ってきているのか、障害の早期発見や先の聴覚口話法教育の徹底で特殊教育の必要が無くなった、さらには当然、親の側からしても我が子には特殊教育でなく普通教育の道を歩ませたい、インテグレーションという方法なり各種の支援や理解もあってそれが可能になった、ならばそれは目出度いことでないか、といったところが大方の見方だろうと思う。

そこに深い問題が横たわっていると著者は説くのであるが、一筋縄でゆかないのが、実際、この障害の非常に深い問題を孕んでいる所以である。

根源的な不全感であり、心理的苦痛

以前、僕が「聴覚障害者は果たして「身体」障害か」、あるいは「ヒトであることすら危ぶまれる」と書いたことがあるように、「きこえない」という障害は手足が不自由で、という機能の障害と異なり、見た目の軽さと裏腹に「人間とは何者か」あるいは「人であるには」という本質を問うてくる重さがある。

こうして僕が齢40を越えてなお悩む(悩むという言葉も軽々しくて何だか当てはまらない)、僕だけでなく、僕以上のずっと年配の方も若い人も・・・であるように、「一体、何だろう」「なぜだろう」という根源的な問いがある。

もちろん、著者も問題の指摘ばかりでなく、それらに対して最後の4節で、そして次の第2章で著者なりの考え、アドバイスを提示していってくれている。

「聞こえる人と同じようになってほしい」という思いの強さ、この親の意識の根底にある考えが示している価値観は

まず、聞こえない子どもを見るときの尺度、物差し、比較の基準が常に聞こえる人だということ。

聞こえる人に追いつけ、追い越せという叱咤激励、「障害に負けない前向きの積極的姿勢」「障害の克服を目指した頑張リズム」の世界が形作られます。


しかし、聞こえる人がお手本である以上、聞こえない子どもは永遠にそのお手本に追いつくことはできません。決して聞こえる人と同じような状態にはなれない。努力しているにも関わらず、常に不全感が伴い、常に劣等意識に苛まれます。頑張っても、頑張っても、いつも聞こえる人と比べられた「駄目な自分」「不完全な自分」「劣った自分」でしかありません。

本人たちの苦しさは、訳知り顔の専門家の指摘で済ませられるような単純なものでは決してありません。日々薄れることのない、真綿で締め付けられ続けるような、根源的な不全感であり、心理的苦痛です。

満足度:★★★★★


 

  Related Entries


Message

メールアドレスが公開されることはありません。