きこえなさの中の自己形成方略とアイデンティティの再構築方略

上農正剛(2003年刊 ポット出版)

2008/07/26 第1章第2節読了、2008/07/26メモ


たったひとりのクレオール―聴覚障害児教育における言語論と障害認識
たったひとりのクレオール

発行が4年前、ベースの論文自体は10年前に遡る本書を、今頃ではあるが面白く読んでいる。今週末は第2節まで読了。第1節からどの頁を開いても持論を喚起される、議論の種になることばかり。本当に深く重く、よくぞここまで克明に書き上げたものだと感心させられる。随所で頁を閉じ、しばし考え込まされるから、なかなか前に進まない。

「まさしくそのとおりだよなあ」と、でもそれが辛辣なほどに容赦なく真実を突き過ぎていて、冷静に読める当事者は少ないのでないか。特に今、子育てに関わっている親の立場であったり、あるいは苦しい格闘の末に何とか自我を確立つつある若い人達にとって、きっと単純には頷けないはずで、直視することのできない酷い内容の連続になっている。

若い頃の僕は間違いなく避けていた、手にすることは絶対になかったろう、その「目をそらしたい」問題や、その態度の非が、精緻に、かつ突き放したような冷たさで書かれているのだから、たまったものではない。

聾教育、難聴教育を語れば、その方法論ひとつとっても必ず侃々諤々、それぞれの立場から、同調しない立場への非難の応酬の議論が必ず起こる。教育にとどまらず、狭い世界(ゆえ)の強過ぎる自我の主張とそれが引き起こす確執がこの世界にはある。第2節の最後で著者も、聴覚障害者から非難されたことを打ち明けている。

当事者にしろ親にしろ、いかなる方法であるにせよ、この苦しい障害の克服に全力を注いできた。何が正しいのか、議論しても尽きない、決して解の見出せない困難さがこの障害にはある。

それを他人であり、かつそのような苦労とは無縁の聴者である筆者が勝手に「分析」した「冷たい」「無責任」な態度が反発を呼び起こしたのであろう。それは確かに苦しんできた難聴者の傷口を改めてこじ開けるような非礼な行為にうつるかもしれない。

僕自身は教育に限っては直接の経験者でなく──それでも決して他人事とは思っていない──、また何より今はもう、充分、距離と時間をおいた立場である点から、この「冷たい」分析を冷静に読めるのだけれど、そうでない立場の人なら、懸命に生きている今を、あるいは必死に生きてくるしかなかった過去を、ことごとく否定するような、今の人格さえも容赦なく否定するような言いぶりには、きっと躍起になって反発したくなる。実際に攻撃も数多くあったろう(今後も呼び起こすだろう)内容だ。

本書のことも善悪、白黒の立場からの評価を耳にしていた。「支持しない」派からすると、一蹴すべき忌々しい論であるという、それが僕にも偏見と先入観を残していたのだが、内容の是非はともかく、今の僕にはそれはそれで素直に圧倒させられる。

聴者の研究者という立場から、ある立場に肩入れすれば対抗する側からは攻撃を受けるし、かといって第三者的な行司役を演じるのも白々しい。いずれにしても何らかの批判(それも半端でない)を受けることを覚悟で、著者の記した価値は大きなものがある。

教育論を語って、その域にとどまらない、今の僕自身の問題そのものがあるし、聴覚障害者にとって艱難辛苦無しの学齢期はあり得ない、その上でさらに引き受けるべき強さを本書は要求しているように思える。


 

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