なぜ今、関心が

上農正剛(2003年刊 ポット出版)

2008/07/21 第1章第1節読了、2008/07/21メモ

なぜ今?

たったひとりのクレオール―聴覚障害児教育における言語論と障害認識
たったひとりのクレオール

まだ第一章第一節を読み終えたばかりだが(といってもここまでで100頁を超える)、本当に重く濃い内容で数行ごとに立ち止まっては考えさせられている。たくさんの問題提起に触発され、それぞれに自分の考えを整理したくなる思いを律儀に果たそうとするなら年単位の時間を要しそうだ。

一体なぜ自分が急に本書を手にしたのか? 引き込まれるように読んでいるのか? 聴覚障害児教育(難聴児教育、聾教育)の問題の本質を探る本書と今の自分のどこに接点があるのか?

教員として教育現場に携わっているわけでない、きこえぬ子を持つ親でもない、僕自身が本書で取り上げられる特別教育を経験した当事者でもないのに。成人してから障害者団体の活動として必ず有する教育問題に首を突っ込んでいるわけでもない。ずっと以前、活動に熱心だった頃、ちょっとかすったこともあったけれど、本書にもあるとおり、経験者でさえ「喉元過ぎれば」で、現に障害を抱える子どもを持つ親の立場にでもならない限り、この問題(教育論)には積極的になりにくい。

考えない方が幸せであろうけれど

普通(聴者、健常者)ならインテグレーション? なんて言葉も知らずに一生を終える、こんなことを考えずに過ごす方がずっと幸せだ。例えば僕も今、その立場なら、問題はあってもまあ普通に仕事がこなせて、家庭を持ち、趣味として余暇を走ることに打ち込み(仕事や家庭以上に?)、そして仕事や趣味を通じた仲間と酒を飲んで語り合い、それ以外のことなんて考えず満たされた生活を送れているかもしれない。

君子危うきに近寄らず──。難しいことなど考えない方がいいに決まっている。魑魅魍魎とした闇に足を踏み入れるような、解決策は決してない厄介な問題に関心を寄せるのが得だとはとても思えない。

教育論、教育現場を取り巻く問題に今後も自分が関わるとも思えないのだけれど、でもなぜか惹き付けられる。きこえない者(きこえにくい者)にとって100%頭を悩まされるのは就労、職業問題であり、過ぎてしまった学校教育の方法論に関心は向きにくい。でも結局、根っこは同じものであるから。

なぜ自分が今こんなに真剣に読み入っているのだろうと考えながら、自分がおぼろげに感じていたことの一つをはっきりと提示されたようなのが、第一節の最後の締めくくりの箇所。

ここ十数年、現代思想の領域では一つの事柄が重要なテーマとして議論されています。それは例えば、ハーバーマス(社会学/コミュニケーション論)、アーレント(政治哲学/ユダヤ人問題)、ロールズ(倫理学/正義論)といった人たちの思考を発火点にして展開されている「公共性」という問題です。

「公共性」、それはつまり共同体のメンバーのひとりひとりにとって、納得のできる本当の「公正さ」「平等性」「正義」とは何かという根本的な問題です。問題の性質から、この問いかけは、当然、「民族論」「少数民族問題」「国家と法」「政治的正義」「産業構造」「環境倫理」「言語とコミュニケーション」「福祉と医療」問うの関連問題に波及していきます。

しかし、私はこの「公共性」という問いかけの波は本当は意外な、しかし、当然といえばこれほど当然の場所はない、ある人々の足下に最も強くうち寄せていくのではないかと思っています。それは、「障害」という状況の中で生きていく人々、あるいは「障害」という問題に関わっている人たちの足下にです。

解があるとは決して思えないけれど、せめて自分なりにこの闇(沼)を進んで光を見つけたいと思うなら、障害学や教育論にとどまらず、民族、政治、法制、倫理、言語、文学、哲学・・・あらゆることを総動員していろんな角度から接近した方がいい。

大袈裟な気もするけれど、それが著者の問いかける

聞こえないという身体状況でこの世界にやってきた子どもたちが、聞こえない人として大切にされ、きちんとした教育を受け、この世界の成り立ちをしっかり認識し、愛する者と出会い、立派な聞こえない人として、堂々と、そして静かに生きていける──

そのような状況を可能にするために個人レベルでも獲得しうる力のひとつになるはずと思う。ともあれ、最後まで読み切れるかな?

満足度:★★★★★


 

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