たったひとりのクレオール

聴覚障害児教育論

たったひとりのクレオール―聴覚障害児教育における言語論と障害認識
たったひとりのクレオール

副題は「聴覚障害児教育における言語論と障害認識」。

知ってはいたけれど関心の向かわぬまま、でもこの頃また思うところ考えるところ大きくなったこともあり手にしてみた。関心の向いた時はやはり心が求めようとしたものが満たされるようで読んでいても面白い。今日読み始めたばかりだが、500頁超のびっしりとした分量、大いに読みがいがありそうだ。

このブログの話題の中心にもなる、自分の立ち位置やアイデンティティといったものを悩ませられるのは、きこえない、きこえにくいこと(聴覚障害)がことば(コミュニケーション)の不全さゆえに関係を築けない(関係障害)ものであるから。

まだ第一章の途中であるが、聴覚障害者児(難聴児)教育の現状、問題点を鋭く指摘して、障害児本人とその周囲(親、教師)の無意識に回避しようとしている現実をそこまで残酷にあぶり出すか? というくらいに冷徹な目で論じている。

「ことば」は誰かと出会い、互いに理解し合うことで仲間になるための道具

ところで今日夜、偶然に聾の友人と出くわした。ちょうど一年ぶりだったが、一年という時間など瞬時に飛び越える。ほんの短い間だったけれど、年も近いしお互い強く尊敬しあうところがあるから会話も弾んだ。

毎日の長い時間を過ごす職場では言葉の通じない(届かない)孤立状況を嫌というほどに味わわされている、毎日、顔を合わせる聴者との間には大きな壁があるのに、一年あるいは数年に一度でも会う時の同障者とのこの心の満たされ方は何だ、というくらいの違いだ。

会った瞬間、さっきまで走っていた僕には聾学校の体育館に灯る明かりが見えていたから、ああ、バレーの練習だったんだなということにもすぐに思いがまわる。何度か記しているようにチームプレーのバレーの楽しさは格別。さらにはコミュニケーションも取れる同障の仲間とならさぞや愉快で日頃の憂さも晴れるだろう。

加わる気があれば歓迎されるのに、今、僕が重心を置いているのが走ることの方であり、この競技がまた「究極の自己満足」といわれるほどに一人で黙々と打ち込めば足りるという特性ゆえに「うーん」と自分の選んでいることとはいえ、あらためて残念な思いにもなる。

一人でできる競技とはいうものの、今日も走っている場には多くの知ったランナーがいて、会えば笑顔で挨拶は交わすし、レースでも練習でも両者をつなぐ「ことば」さえあれば僕からも近付ける、僕に話しかけたいと思う周囲も多いのに・・・、と、ここでも毎日、あるいは十年たっても築けずに逸している非常に多くのチャンスと、一年に一度会うかどうかでも心を通わせられる仲間の、こちらは限りなく少数しかいないマイノリティという立場との、ギャップの大きさを思い知らされる。

本書の中でも例えば沼に足をとられてもがいている・・・とは、昨日、自分でエントリしたばかりの内容と同じ。さらには聴覚障害者が一般に取る障害の受容過程にも通じること。本書は幼少時から学齢期の教育問題を主旨としているものであるのに、教育に限定されない共通の問題のあるのが、その深さがやはり聴覚障害の難しいところだ。

子どもたちが実際歩いているインテグレーションというその道の本当の状況は、どうなっているのでしょうか。

最初しばらくは、誰にとっても歩きやすいただの平坦な道に見えますが、そのうち道は徐々にでこぼこの悪路となり、足腰の弱い子どもは転び始めます。何度か転び続けるうち、立ち上がる元気も失い、座り込んでしまう子どもも出てきます。たとえ、そのでこぼこ道を乗り切ったとしても、その先は、今度はどろんこのぬかるみ道になっていて、多くの子どもたちは足をとられ、その泥沼の中で歩みを進めることが困難になります。少数の体力のある子どもたちだけが、泥沼の中を喘ぎながら、自力で何とか這い進み続けることが出来ますが、その子どもたちも実際はほとんど疲労困憊状態になっています。

インテグレーションとは障害児も普通教育の場で学ぶ「統合教育」のこと。ここでも子どもたちに限らず、大人でも聴者とのインテグレート(統合)の日々の中で疲労困憊になっている。

満足度:★★★★


 

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