キャッチャー・イン・ザ・ライ

J・D・サリンジャー/村上春樹訳(2003年刊 白水社)

2004.10.10読了 11.03メモ

青春小説

キャッチャー・イン・ザ・ライ
キャッチャー・イン・ザ・ライ

ご存じの通り、青春小説の名作『ライ麦畑でつかまえて』が、村上春樹訳で生まれ変わって再登場、ってやつなんだけれど、それですぐベストセラーになっちゃうところがおかしいとまず僕は思うんだ。まあ、この物語は確かに息の長い、世代を超えて読まれ続けているロングセラーなんだし、僕自身、今度の新訳版が出るや飛びついて買った一人だから偉そうなこともいえないんだけれど。でも、この小説は読むべき時期、っていうか、読める時期っていうのがあると僕は思うんだよね。

普通にいえばティーンエイジャーの、それからそういった年代の問題だけじゃなくて、たとえ10代諸君であっても、幸せで明るい希望に充ち満ちていて、前途洋々な未来に包まれているようなときに読んだってそう面白いとは感じられないと思うんだ。

僕も初めて読んだときは「何だよ、コレ」って、言い方は悪いけれど、サラリーマンが飲み屋でくだをまいているように、随分おタクな男がぶつぶつグチってるだけのように感じられたから。

もちろん、その後、しかるべき時期に読み直してみると、そうじゃないってことがちゃんと分かったよ。二十歳過ぎの、結構、遅い時期に2度読んだときはそれなりに感じられたからね。まあ、この小説の命のみずみずしさは逸していた、読むべき年頃っていう旬は逃してたろうけれど。それから、3度目はアメリカにちょっと行った時にね、まあ、ニューヨークのセントラルパークとまではいかなくて、西海岸なんだけれど、現地の本屋さんでペーパーバックを買って、1ヶ月の滞在中に、お世話になっていた家で、夜、寝る前とか、行く先々の公園とか、子ども達が野球をしているところなんかの、それこそ「ライ麦畑のキャッチャー」になりきったつもりで、そんな色んなところで読み進めたんだ。うん、これはすこぶる良かったな。原著の言語圏に身を置いて読むっていうのが。

THE CATCHER IN THE RYE
子どもたちとペーパーバック
(1990年3月)

大体、本っていうのは家の中で読むより、旅の移動中に読むとか、普段の生活を離れた旅先で読んだ方が心に残るものなんだけれど、このときの「キャッチャー」は、これまでの中でも最高の読書じゃなかったかと思うんだ。いや、僕が英語が得意、っていう訳じゃ全然なくて、きっとそのときも90%以上の単語は分かっていなかったはずなんだよ。でも、環境に気持ちが同化する、っていうの、あるよね。そのときは、不思議に物語の中に入り込んでゆけたんだ。分かってもらえるだろ。

まいっちゃう兄妹

で、その時を最後に、僕も仕事をするようになると、インチキな大人の世界に足を踏み入れてしまって、この本も過去の青春物語として、書棚の大切なコレクションではあってもそれ以来、読むことはなかったんだ。それを15年ぶりに今回、新訳を手にとってみた。買ってはいても、2年近く積ん読になっていたのは、そう軽く「読もう」っていう気になれるタイプの内容じゃないことが分かってたからね。そうはいって、僕が今回読む気になったからといって、僕がちょっと落ち込んでいるとか、うちひしがれているとか、めそめそしているとか、心配してくれるには及ばないよ。たとえそうでも、さすがに僕も40歳前だからさ。

ちょっとまあ、前書きがデイビッド・カッパフィールド式のくだらない話になってしまったかもしれないけれど、ともかく、15年ぶりの再読も良かった。やっぱり村上春樹という人は当代随一の書き手だね。本業の小説は言うに及ばず、スポーツについて書いたエッセイでも、そこらへんの、TVに出て熱弁をふるっている有名なスポーツライターなんかをはるかに凌ぐし、旅好きのこの人の紀行文は、左に出る人はいないと思えるくらいに旅情をそそってくれる。そもそもの筆力が違うんだ。こんな人と同時代に生きてるのは幸せだよ。今度の新訳もすんなり読めた。決して前の野崎孝さんの訳が悪い、っていうんでもなくて、あっちに慣れ親しんだ世代としては、ちょっと引っかかり気味ながらもあれはあれで悪くなかった、むしろ、あっちの方が懐かしさを閉じこめてくれているんだけれど。

内容のどこがどう感じられて良かったか、なんて、ここでいちいちいうような野暮なことはしない。あらためて思ったのは兄弟愛についてかな。兄のDBに対しては辛辣な口も入るけれど、アリーやフィービーといった弟、妹となるとホールデンはからきし弱い。これにはまいっちゃうね。僕には姉がいて、まあ、姉と弟っていうのも悪くないんだけれど、でも弟か妹がほしかったと昔はよく思ってた。それをあらためて思い出した次第さ。サリンジャーさんの他の作品、いわゆるシーモア一家の構成がそうなんだけれど、サリンジャーさんも現実の兄妹はお姉さんだけだったようだから、弟や妹に憧れていたんじゃないかな。

フィービーに会おうとホールデンがこっそり夜中の家に戻る頃から、この物語のクライマックスになってゆくだろ。ホールデンはフィービーの仕草にさんざん、まいっちゃうんだけれど、ペンシーを出てからあっという間に手持ちのお金をほとんど使い切ってしまったホールデンがフィービーに無心する。頼まれてフィービーが、貯金箱からなけなしのお金、クリスマス用のおこずかいを渡そうとするところ。ここは僕らがこの兄妹にまいっちゃうね。何しろあのホールデンが突然、泣き出すくらいなんだから。こんなふうに引っぱるサリンジャーっていう作家も、つくづくすごいもんだよ。

おしでつんぼの生活

それから、僕が一番好きなのは、最後、ホールデンが家に戻るのをやめて西部に行こうと決心したところ。おしでつんぼのふりをして暮らしたいってところだね。さっき、僕は初めて読んだ時につまらなかったみたいなことを言ったけれど、最初に読んだ時もここだけは良かった。胸に突き刺さったよ。ぐさっとね。僕がこの小説を読むのは、この部分にたどりつきたくて読んでるみたいなもんだな。今回の新訳では、「おしでつんぼ」って表現がやっぱりまずいのか、──まあ、春樹さんじゃなくてもそうなんだろうけれど──「聾唖者」になってるけどね。

ふりをする、っていってもサリンジャーさんが聾唖者を蔑視してたわけじゃない。実際、サリンジャーさんも隠遁生活とかいわれて、そうしたところがあるだろ。世間と一切、交渉を絶って。まあ、ろう者っていっても十把一絡げじゃなくて、実際にはとことん明るい聾者が多いんだけれど、やっぱり、あんまり積極的に世間には顔を出したくなくて、夫婦で閉じこもってる、今風にいえば、引きこもってる聾者がいることも事実なんだ。今は街の中で手話を使っても変な目で見られることも少なくなったし、手話を理解してくれる聴者も随分増えた。だから、もっと街に出ようよ、聴者の世界に踏み込もうよ、って誘っても、あるいは聾者だけの集まりにも顔をほとんど出さないこともある。僕もその心情はよく分かるからね。

脈絡のない、つまらない話に終始してしまったけれど、無事に読み終えたよ。正直、最近は一冊の本を最後まで読み終えずに放っていることが多くなってきたから回転木馬のシーンまでたどり着けるか不安だったんだけれど、チャンスを逸せずに読ませてくれた。この次はもうないかな、っていう気もする。

ところで、君はクリスマスはどうしてるのかな? ニューヨークにはいつか行ってみたいと思ってるけれど、この本を読んだからじゃないけど、ニューヨークに行くんなら、絶対にクリスマスの時期に訪れてみたいね。クリスマスくらいゆっくりとしたいし、できれば雪が降ってるような雰囲気の方がいいよね。僕は今年は何の因果か、沖縄に行っているんだ。この小説をクリスマス小説って、いっていいのか、クリスマスの時期に何か読みたくなったら、この本を読んでみるのも悪くないと思うよ。

満足度:★★★★★

でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー。僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね。


 

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