ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術

立花 隆(2001年刊 文藝春秋)

2002.10.14読了 10.26メモ

巨人、超人「立花隆」

「知の巨人」立花隆が『週刊文春』に連載していた「私の読書日記」の約5年分をまとめたもの。

著者は本書の「序」で、本を紹介する基準(あくまで、著者は「書評」ではないと云う)について触れているが、その中で、長編小説、ミステリーなどエンタテインメント系の本などのタイムコンシューミング(時間ばかりくってしょうがない)本につきあっているヒマはない、と述べている。1995年刊行の「ぼくはこんな本を読んできた」でも「人間とは何か? 人類とは? 宇宙とは? を考えるとき、絶えず知の先端にいたいとき、小説など読んでいるヒマはない」と同じことを確か、述べていた。僕自身もその時は素直に同意できて、就職後、もっぱら実用書・ビジネス書の類ばかりで小説を読もうという余裕など全くなかった(といっても、著者の勧める科学系のものを読もうとしたことはさっぱりなかった)。けれども、今では、むしろ以前以上に小説を読んでいる。氏の説くような、現代に追いついてゆくための絶え間ざる勉強、知識の蓄積はできていないけれど、これが自分なのだと半分諦めてもいる。


『「捨てる」!技術』のナンセンスさ批判に同感

僕がこの本を購入したきっかけは、氏が読んだ本、書評という形で紹介している本を知りたいというよりも、巻末に掲載された「『「捨てる!」技術』を一刀両断する」を手元に残しておきたかったためである。これは、月刊誌の方の『文藝春秋』に掲載されたのだが、コピーを取リ損ねていたものだったから。

『「捨てる」!技術』については、僕もベストセラーとして紹介され出した頃に読んだのだが、全く納得行かぬままに読み終えた。単に、捨てれば簡単になる、きれいになる、すっきりする・・・のは、あまりにも短絡的な考えではないか? このような本がベストセラーになってしまうのは、現代社会においてモノが安く買えるようになり、容易に複製が出回り、誰もがモノを持ち過ぎてしまっていることに悩んでいる、同時に人が膨大、無尽蔵な情報に振り回されているからであるけれど、だから、その答えが「捨ててすっきりしてしまおう」というのはおかしい。

人間は、自分が過去につきあってきた人、モノ、情報・・・の集大成であって、それらはある一時期に用が済んでしまえば捨てられるものでは決してない。モノ、情報はどんなに確率が低くても、その後の自分が再び参考にし、確認し、検証しようとする瞬間が必ずある。捨てない限り、モノは増えてゆく。一見、不必要なものを抱えて生きてゆくようでも、それが年をとるということだ。乱雑さは醜いけれど、要は整理と処理の問題だ。そして、情報の「整理」技術について論じた本も、古く立花氏の手による『知のソフトウェア』や、これもベストセラーの野口悠紀夫氏による『「超」整理法』その他、あまたある。

『「捨てる」!技術』が方々で取り上げられ、絶賛され(?)ていたときに、「果たして本当にみんな、あの内容に同意しているのかな?」と疑問を感じていた。そんなときに、氏が一刀両断してくれたから、全面的な拍手を送らずにいられなかった。

ストックをためるということは、未来に現実化可能なポテンシャルをためるということ

人はその持っているモノとともに、そのモノに喚起される形でポテンシャルな過去と未来を記憶と構想という形で同時に引きずっている

に尽きる。人も同じで、どんどん切り捨ててゆくだけで、ポテンシャルを抱えていない者は、深みや奥行きのない、薄っぺらな人間とみなされてやむをえない。

山根一眞氏も

同じく情報の整理について早くから持論を世にアピールしていた、デジタル技術に造詣の深い山根一眞氏もちょうど同じことを言っている新聞掲載記事がある(本書を読み終えた後すぐの、10月20日付け読売新聞「よむサラダ」)。これにも大きく共感させられた。「モノ片づかない書斎」と題して、著者は自分で20年に渡って情報整理法を提唱しておきながら、自分の書斎は一向に片付かないことを告白している。

とりあえずは使わないモノ

が圧倒的に多いせいである。そして、

心の中では、これらの怪しいモノを整理整頓し、何らかのかたちで体系づけ、壮大なる文明パノラマにまとめ上げるのだと考えているからだ

人はモノを集める習性がある、そのエネルギー源は「未来の時間の先取り」なのだ

かくして僕も、住空間の制約を受けながらも、本が増えてゆき、新聞や雑誌の切り抜き(全く整理されていない)が散らばる中で、何とかうまい整理法を模索しながら生きている。それでも、捨てずにとっておいたものが、あるときふと役に立った時の、そして新たな発見につながった胸躍る歓びと深い満足感を味わえた時の、これこそが、生きている証しなのだと思っている。

とはいえ、本書は新刊書を書店で購入したもので、もったいない気持ちで、一応、全部には目を通した。著者に紹介されてみると、これは是非読んでみたいと思う気持ちにさせられるものも多い。それにしても、1年半かかってようやく読み終えても、ここで取り上げられた本を僕は一冊も読んで(持って)いない。

人類と本について

本書は「『「捨てる!」技術』を一刀両断する」「私の読書日記」とそして、最初の「序 宇宙・人類・書物」の3部構成となっているのだが、やはり、一番興味深いのは、人間と書物のかかわりや出版社文化を紹介しながら、氏の読書術、読書観が述べられた「序」の部分である。氏の本を読んでいるといつも、生へのよろこび、意欲がわいてくる。知的探究心を刺激してくれる。

僕は、自分自身の肉体性ゆえ、人間が「考えること」とそれを「表現すること」、そして人間同士が考えを思いを交わすこと(コミュニケーション)について、いつも「考えて」いる。手話という手段、言語と人間性。思考と言語の関係。いうまでもなく、古今東西の研究テーマで、無数の学者が述べている。一筋縄でゆかない難しい問題だが、著者もこの、序の中で本とビジュアルな要素との関係、として触れている。「言語使用は思考の絶対条件だろうか。・・・(略)・・・決してそうではあるまい」として、著者の洞察が詳しく述べられている。このあたりも興味深かった。

この意味でも、「序」の部分は三読の価値あり(序といっても、70ページ近くある)。


書物というのは、万人の大学。何事かを学ぼうと思ったら、人は結局、本を読むしかない。生涯書物という大学に通い続けなければ、何事も学べない。私自身、書物の森という大学の中をそぞろ歩きながら、遊び心で気を抜く行為もいろいろやりつつ、勉強をし続けてきた。

満足度:「序」だけで★★★★


 

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