人生は苦戦の連続/立花隆

先週水曜のNHK

夕食時に見ていた(22時~)クローズアップ現代「知ることに終わりはない 〜立花隆さんからのメッセージ~」が良かった。

どれも面白いエピソードだったが、一番胸を打たれたのが2012年11月、若者達への講演会として述べられた

「ゲゲゲの鬼太郎」というのは、みなさん読んだことがあると思うんですが、必ず最後「今回も苦戦だったな」、そういうひと言が出るでしょう? 人生っていうのは結局、苦戦の連続なんです。だからも僕もずいぶん今いろいろ振り返ると、本当に苦戦の連続だった。でも苦戦を切り抜けていく、そういう内的エネルギーを持続させることが大事なんです

鬼太郎が出てきたときは ?! と思ったものだが、本当にそのとおりだなと、と力付けられる、勇気付けられる言葉をもらえて一番印象に残った箇所だった。

ある程度年を取ったから実感できることでもあり、人生の大きな苦境や苦難を乗り越えることはできないなりに何とか対峙する術も身に付けられるようになった、もしかすると切り抜けてきているかもしれないし、何かひとつの苦戦を切り抜けたと思うときもある、でもそれに安堵できるのはほんの束の間、次々に苦戦はやっては来て現れる、私生活にもあるし、仕事をしていても毎日毎週、毎月、毎年の単位でそういうのはある。でも、そのうち、それが人生で、切り抜けられるかどうかはさておき、苦戦に向き合うしかないし、苦戦のない人生はつまらないし人を成長もさせないことに気付くようになる。

翔ぶが如く(五)

波濤

日本の台湾への軍隊出兵について外圧(外字新聞、特に英国)は強かった。元来、かつて攘夷の志士が樹立した維新政府は、国際社会に入ると同時に自国の弱小認識せざるを得ず、大国の気息をうかがうような、幕末の英気を失ったひ弱な態度をとった。その政権が、大久保をはじめとする経験の薄弱さから粗暴な征台という積極的態度をとった。甘い予測を裏切り、清国も抗議書を送りつけるなどの強腰に出て抜き差しならぬ事態になってしまった。

大久保は、戊辰のときも戦火をくぐらなかったが、重大な危機に遭遇すると隠退へ逃避したがる性癖の西郷よりむしろ苦境に堪える強さをもち、自己の責任に不退転の覚悟を有していた。あわてて撤兵しては国家の体面にかかわる。奇矯な出兵の理由と、また撤退の理由とが面子の上で必要だが、初代駐清公使の公卿出身柳原前光らの拙劣な交渉もあり難航していた対清外交にひとりで決着をつけようと決意する。

征韓論に反対したはずの大久保が、戦争の決意をもって廟堂の同意を得るという賭けに出る。戦争を賭けにして賭場に臨み、戦争をせずに外交の果実を獲ろうとする持論であり、政府内の反対を強引に押し切った。三条にしてみれば、かつて西郷が遣韓大使を求めようとしたのと同じ構図で、大久保が渡清大使たらしめよと運動するものだったが、違うのは、大久保が外交上の駆け引きとして戦争を使うつもりであることを筐底に秘めていたことだった。

大久保は明治七年八月一日付をもって全権大使としての勅命を受ける。最後の反対の砦は陸軍卿山県有朋で、人民中心の議論から抗議する木戸の後ろ楯もあり執拗な反対にあった。山縣の反対に人民主義の思想はなく、ただ陸軍に外征できる実力はないという現実と、国内の不平士族、とくに薩摩が政府の命令で動くのかというものだったが、大久保は皇帝陛下の宸断を仰ぐのみという、天皇制の原型にして、のちに山縣がそれを制度化してゆく一言で沈黙させた。

北京へ

清国は列強に土地を割譲してきた。英国に香港を、フランスにベトナム支配を、ロシアに黒竜江、アルグン川流域を割いてきたが、それらはいずれも清国が手も足も出ない強国であった。清国にすれば、アジアの小国、日本が真似ることは笑止であり、清国に既得権をもつ英国をして日本を始末させる見通しをもっていたろう。清国から出兵費負担という意味の賠償金をとることで国際的な面目を立てるというには、大久保には至難の交渉であった。

大久保は自分の権力を正当化し、増幅し、その専制体制を確立するために天皇のを絶対的存在として奉る体制をとろうと天皇の存在を巧緻なほどに利用した。明治国家の原型をつくってゆく過程がここにあり、かつて佐賀ノ乱鎮圧に当たり、行政と軍事、それに司法権までにぎった思想から、天皇の代行者として天皇自ら事を処するに同じという国書まで携えるほどの全権をもった。

総理衙門

大久保は天津に上陸したが、この地で清国の事実上の対外交渉権を握る最高の実力者で北京を凌ほどの個人的勢力を築いた李鴻章に対し表敬訪問ひとつせずに黙殺を貫いた。柳原の外交団が談判している北京の総理衙門に突き進み、大久保自らが談判場裡に臨もうとした。

皇帝専制の国であった中国は、皇帝が宇宙で最高の存在で対等の外国というものは存在せず、他国にも対等の礼は用いずにいたが、アロー戦争(第二次アヘン戦争)後、北京に常駐することとなった英仏露米の公使への応接用に総理衙門、正確には総理各国事務衙門という形式上清国の対外問題を処理する機関が設けられた。

清国の用意した酒宴の場で大久保はいきなり質問に入る。台湾の生蕃地域には清国の官庁がなく、万国公法(国際公法)に照らせば政堂も設けていない台湾生蕃の地は清国の属地とは言い難い。大久保の用意したこの質問は、航海中からの随員として法律に明るい司法省傭いの仏人ボアソナードに問いただして練り固めたものであった。

北京の日々

清国の総理衙門と大久保の交渉は予想以上に長引いている。「生蕃ハ清国ノ属地ニアラズ」との大久保の主張に、清国側も感情的に硬化して台湾島は清国のものであると声高に繰り返す。第四次談判まで三週間が経過した。大久保はその常人ばなれした粘着力で、フランスの法律学者の一説に過ぎない国際公法の解釈に依った主張を執拗に繰り返す。かつて維新において苛烈な裏工作をほどこした大久保が、この談判では舞台裏の工作や取引の手を用いず、議論のみを武器にして弁論により勝ちをとろうとしていた。

談判の対象となっている台湾で、駐留する従道以下三千の将兵のほとんどがマラリアに罹って高熱と衰弱のために死んでゆく惨況を報されていた大久保は、双方、決裂をほのめかして永久に平行線の主張になっている談判を何とか浮上させようと懸命に活路を見出そうとした。主戦論、非戦論双方の議論が沸騰した末に、同行の井上毅の漢文の才、また田辺太一による国際常識で刷きあげられた照会文を事実上の最後通牒として送付した。

この時期の日本にとって英国は、かつて戊辰戦争での薩摩郡の銃砲艦船の多くを購入した恩義や、新政府樹立に伴う膨大な外債のほとんどを占めるという現状から粗略にすることのできない国であったが、大久保は、清国側に立って両国の調停に乗り出そうとする北京駐在の英国公使ウェードを冷遇し、仲裁の条件を有利に進めようといなし続けた。

ウェードは、むしろ日本は台湾でなく朝鮮に手を出すのが利益だともけしかける。大久保に接する真意の一つとして、ウェードの側には、英国の帝国主義外交上の政策があった。極東では、資本主義後進国のロシア帝国がシベリアからカムチャッカ、樺太にまで南下していた。英国は、ロシアがやがて満州と朝鮮に手を出し、英国が権益を独占している清国にも重大な圧迫を加えてくることを怖れた。ウェードは、清国と戦争の可能性のある日本を直接に怖れるのでなく、日本が清国で事をおこすことによりその混乱に便乗しうる独仏両国を、またロシアの南下政策を怖れていた。

後年の日露戦争は、このときに芽を出しており、日本は英国の支援のもとにロシアと戦った。一方、ロシアを支援したのが、英国の権益圏を攪乱しようとする仏独であった。ただ、このときの大久保は、台湾や朝鮮を欲する領土的野心があるわけではなく、国内の不平士族の血気を鎮めるために軽率に出兵した体面を保つためだけに、撤兵の名義と条理の正当性をあたえる賠償金を求めた。

五十万両

北京にいる大久保のこの平和的解決主義は、好戦的気分の沸騰する日本国内の不平士族にはなまぬるいものとうつり極度の不満をあたえたが、大久保からすれば清国に賠償金を出させることで引かない強硬姿勢を貫いていた。

明治維新は攘夷を掲げて革命政権として成立しながら、たちまちに列強の帝国主義外交の強力さを思い知らされてその恐怖に腰が抜けたようなだらしなさをみせた。政権の列強に対するだらしなさを憤慨する在野世論は、ちょうど幕末の攘夷論のように加熱しており、その世論が武装化すればもともと瓦解寸前の見方さえある東京の政権はあすにでも倒されるかもしれない。明治初期政府の主導者である大久保にとって、国家の体面を保つという背後には弱腰を見せるわけにはいかないという形而下の事情があった。

第七回の談判で清国は、生蕃の害に遭った者への大皇帝による慰問金を提示するも、大久保の求める金額と書面が得られずに決裂というかたちになった。

帰国

結果としては、日新両国の融和に立ち回った英国公使ウェードの、償金と日本の義挙であることの書類化という案で事態は急転直下解決する。台湾が無主の地であるという日本の詭弁は英国にも認められるものでなかった。ただ、大国の清国が西欧化せずに固陋な態度をとり続けることに英国をはじめ各国が同情的でなかったことが日本に有利に働いた。ウェードにも、日本に道理はないとしつつ、清国の老大国の態度を懲らしめるべきという気持ちが働いた。

もっとも、ながく海禁した清国、鎖国した日本と朝鮮らのアジアの国家群にとって産業革命や西洋諸国の発想を共有できるはずもなく、欧米各国の進出はアジアが需めたものではなく、ただ西洋諸国の国家的欲望で本来無縁であるべき存在のものであった。

いずれにしろ、清国がつぶすのは容易であったに違いないわずかの征台部隊しかもたない状況で、交渉を重ね、機略を用いて解決に導いたことは、大久保の大きな成功であった。

壮士

東京の集思社を訪ねた白川県(熊本県)士族宮崎八郎のことを創設者の海老原は高く買っていた。将来西郷が起つとき、隣県熊本の不平士族を統率する人物として期待していたこの若者のことについて書かれている。

志願兵として台湾にいた八郎は、まだ見ぬ西郷を冷笑したい思いを持ちつつ戦争が文明であると信じて疑わない激しい反政府主義者で、戦争の拡大を欲していたにも関わらず台湾駐屯軍の撤退することに大きな失望を感じていた。幕末より続いてきた攘夷気分という鬱懐は、かつて幕末において幕府をゆるがし、争乱を起こさせ、ついには明治維新の主因になったが、世が変わって一部の志士が東京で大官になり、彼らはいち早く開明化して、野に満ちた鬱懐を置き去りにした。その晴らされない野の鬱懐が鬱勃とたぎっているのが、八郎の精神状況であった。もっとも八郎は大久保をもって奸物、悪党とする野の気分を激しくもちつつ、その反政府主義に理論はなく、気分の段階でしかなかった。

台湾本営で北京談判の経緯を説明した大久保の帰国に続いて、西郷従道配下も撤兵の路につく。徴集隊の八郎は、東京の反政府党の反応を見聞したい思いで従道とその司令部が乗船する東京丸に割り込んだが、従道麾下の征台軍が熊本鎮台の主力として熊本城に帰るとされ、また、八郎自身も台湾瘧の症状が出て長崎での下船に従わざるを得なかった。

肥後荒尾村

宮崎八郎が、マラリア熱で衰弱しきった体で荒尾村の自宅に帰ったのは明治八年の寒の頃で、土間からかまちへ足があがらなかった。

征韓論から台湾従軍までの八郎は、文学的気分の上での領土拡張論者であったが、帰郷後ほどなく劇烈な自由民権運動者になる。兆民訳のルソーの「民約論」にはこの時期触れなかったかもしれないが、前年明治七年の正月に東京で旗揚げした板垣退助ら辞職参議数人による「民選議院設立建白書」の影響はあったに違いない。

肥後(熊本県)という土地は、日本では数少ない思想的風土で、互いに小異を譲らない議論好きで、党派ごとに相屹立するというところがあった。戦国期も小党が乱立してついに統一大名が出ず、豊臣政権後に秀吉が封じた尾張者の加藤清正による統治でようやくおさまったほどの難国であった。幕末の争乱期から八郎の帰国した明治八年まで、肥後には党派が五つあった。

学校党(藩校時習館出身者の結社による藩官僚党)、実学党(学校党対抗勢力で、殖産興業を志向し現実の政治と行政を説く)、敬神党(神界に永劫の生があるとして、やがて神風連になってゆく)、勤王党(明治になってからの勢力はほとんど無い)、民権党(八郎らの同志により発足)で、この時期、権令として熊本を収める安岡良亮は士族達を四分(勤王党を数えない)させている四党派の統治に難渋していた。県では民権運動を怖れる空気が強かったが、八郎は安岡権令に直接会って八郎の主張する学校設立を許可する。

植木学校

八郎が興した植木学校は、政治結社のつもりで反政府運動の拠点として兵士を仕立て上げようとしていたが、どのようにして運動すべきかその方法が見つからない。

村の政治を人民の手で議する民会を興し、戸長を民選にすることから始め、県会を開設させようと建議書をもって白川県庁を訪ね、ちょうどこの頃、安岡県令が全国地方官会議で不在ときくと、いっそ自分も上京して県会開設の談判をしようと考えた。この八郎の焦燥は、五十万石という雄藩意識をもち、平均的教養の水準は高いという自負心をもちつつも幕末に時代の魁をしなかったために薩長藩閥政府の支配に甘んじざるを得なかった当時の肥後人の気分が強かったからで、八郎は、いち早く中江兆民のもとに飛び込んで、板垣退助などの英国流の政治意識よりも突き進んだフランス流の哲学的人権説を肥後に導入したかった。

明治八年・東京

明治八年一月、伊藤博文らの奔走で大阪会議が開かれた。伊藤は、木戸と板垣を再入閣させるために木戸の素志である斬新的民権論に沿う三権分立の思想を盛り込んだ新体制として、上院である元老院と下院の地方官会議からなる立法府、大審院を設けた司法府、内閣各省をもって行政府とする提案を用意した。伊藤を喜ばせたこの案は、伊藤の機略、政略から出たもので、東京政権への不満を民権体制をとることによって吸収しようとしたものであった。

八郎が再上京した明治八年の夏は、反政府的言論に対する弾圧法としての「讒謗律」が政府により発布されるなど、八郎のような思想家にとって激変と呼ぶような騒然としたもので、こうした情勢下に八郎は中江兆民宅の仏学塾を訪れた。

兆民は使節団に同行する留学生として、パリ・コンミューンが崩壊したあとの第三共和政成立期にして求心的自由主義がもっとも華やかな時代のフランスでルソーの思想に深く惹かれた。幕末に奔走した志士たちは、アメリカの独立革命やフランス革命に漠然とした憧憬をもちながら、この二大革命の理論と思想の根拠がルソーにあることは知らなかった。もし幕末にルソーの思想が入っていればその革命像はもっと明快であったに違いないし、兆民が十五年前に出ていれば、明治維新という革命に、世界に共通する普遍性が付与されていたに違いない。

ルソーも兆民も、人民をもって国家の当然の主権者であるとした。社会は契約によって成立しており、その契約は、主権者である人民が個々に相互に社会的結合である国家を契約したものである。ルソーも兆民も、このため立法を重視した。立法は人民によっておこない、そこで成立した法律が、国家を運営する。八郎は明治八年の夏、兆民とルソーの『民約論』に触れることで雷に打たれたような感動を発した。

政府はこのフランス学を敵とした。フランスから輸入された急進民権思想が若い不平士族の心を魅惑しつつあるのを、ドイツ学によって防ごうとしている。

翔ぶが如く(四)

薩南の天

明治七年、西郷と薩摩士族が忽然と消え、政府から離れ消息が絶えた。東京や各府県の反政府的士族達は西郷の決起を待ち望んでいたが、西郷は山野に隠れこんで動かない。

西郷は藩士らを軽挙させず待つことに徹底して起臥していたが、ついさきほどまで参議の重職にあった江藤新平が佐賀士族とともに武装蜂起した。江藤は維新政府きっての頭脳をもちながら、維新で遅れをとった佐賀から旗をあげねば再び薩摩にしてやられるという論理で自分の行動を気ぜわしく、政略的戦略的に何の計算もない軽率なものにしてしまった。江藤は自分が立てば西郷もも立つと期待したが、議をいうなと薩摩で嫌われる「議」をもっとも得意とした江藤よりも、議論を悪徳とする薩摩のほうが政略の基本を誤ることなく動こうとせず、江藤の乱はあっけなく敗北した。

佐賀の乱には熊本の鎮台が、戦闘に参加した最初の政府軍として出動した。大久保も自ら鎮定に出向くという素早い対処をとる。佐賀ノ乱は潰えるべくして潰えたものだったが、この乱を政府が体験することで以前と見違えるほどに強靱な権力になった。佐賀ノ乱に続く明治九年の前原一誠の萩ノ乱、熊本の神風連ノ乱は結果的に、政権の体質の強化に役立つこととなった。もし佐賀ノ乱がなければ、明治政権は後に西南戦争でもろさをさらけだしたに違いない。さきに武市による岩倉襲撃を機に大久保と川路がポリスを大増員したように、無計画な叛乱は政府の統制装置を強化させる以外のなにものでもない。江藤は戦場を脱出して西郷との面会に向かうが、江藤が司法卿時代につくった警察網に自らかかってしまう。

鎮西騒然

江藤の最期が世間に与えた衝撃は深刻であった。

それまで東京から帰った薩摩士族をはじめとする帰郷者達の気分は、幕末に倒幕の大工作をし、戊辰に官軍の中核として関東、北越、東北、蝦夷地の山河をこえて連戦してきた自分達の壮気が明治維新を成立せしめたという自負が強く、政府に対する前途の観測を甘い自己肥大の自信の上にもっていたが、前参議であり正四位の朝臣である江藤に対し、大久保が梟首という惨刑で報いたとき、江藤の運命があすの自分達の運命であり、大久保の引率する太政官の意外な強さを思い知らされることとなった。

かつて、前将軍徳川慶喜や戊辰のときに官軍を手こずらせた越後長岡藩、最後まで抵抗した会津藩ら、国事犯に対しても寛大に待遇してきた明治政府が、江藤に対しては、行政上最高責任者の太政大臣、また他の参議らの意見を省みず、大久保一人の権力を持って官憲国家の強大さを示してみた、反政府分子に戦慄と恐怖をあたえようとしたものであった。

私学校

西郷が設立した、のちには鹿児島県の半行政機関にまで発展する私学校は、沸き立っている壮気を圧えるための装置であったかもしれない。

ときの鹿児島県県令大山格之助綱良は、西郷、大久保に並び器量が大きく、とくに戊辰の時勢に武功の大きい薩摩人で、藩主島津久光に気に入られたこともあり政府に入らず鹿児島県政にたずさわることとなった。政府のやり方に鬱屈のある大山は、新しい文明を志向する新政府の方針と背反し、薩摩の士風、精神を教授する薩摩武士の伝統に回帰する私学校の方針に賛同し尽力した。

私学校のほかに、砲隊学校や賞典学校(外国語の習得)が設けられ、また、以前からあった医学校もあったが、西郷は、この時勢でもっとも重要とされた工業を興すということはしていなかった。西郷の師匠というべき島津斉彬には、その思想と政治的実績があり、産業国家を形成できるだけの基礎を築く先覚性があったが、西郷には資本主義というものが理解できなかった。

西郷は革命の主導者でありながら、革命に成功して目にすることとなったのが世界の趨勢である、西郷の忌避する資本主義であったということ。大隈重信はその回顧録で「魯直にして経綸の才乏しき西郷、板垣の徒」と充分過ぎるほどの侮蔑語で批評している。西郷は資本主義というより保守性からくる農本主義で、私学校も西郷の膨大な感情に感化された感情集団になって行った。

そのひとびと

西郷の周囲にいた人物の中で、村田新八についてかかれている。

新八は、西郷の同調者の中では珍しく明治四年岩倉使節団の洋行組のひとりであった。洋行組であるにもかかわらず、帰朝後、唯一人の例外として征韓派に走る。

新八に同じく、西郷を強く思慕していながら、海外から帰ってみるとその西郷が政府を去っている。その状態に自らの進退を決めかねていたもう一人の薩摩人として、日本で最初の英和辞書を刊行し、米国へ留学し、新八のわずか数日前に帰国していた従弟の高橋新吉がいた。

新八は、新吉から西郷の一件を告げられた後、佐賀ノ乱のあとに数日間在京していた多忙中の大久保を訪れて西郷の下野の事情をたずねる。永年、西郷と大久保を見てきた新八には、征韓論の衝突は両大関の衝突であり、両人が議論を異にする以上、日本中のたれも調停し妥協させることができないと悟る。勝海舟に「大久保利通に亜ぐ傑物」と高く買われ、西郷、大久保両人にも君子の典型のように評価されていた新八は、最初、従弟の新吉とともに、鹿児島に帰って西郷の意見をたずねたのち進退をきめたいと思った。二人は船を待つ横浜のホテルで夜を過ごしたが、同様、大久保に是があることに胸中は同じであった。けれど、新八は闇の中で考え続けて新吉との鹿児島帰りを翻意する。自分は義理として薩摩に帰らねばならない。けれど、新吉にその必要は無く、やがて失落してゆく西郷党に従弟を巻き添えにすべきでもない。新吉は東京に残るよう命じて、自らは鹿児島へ帰ることを決めた。大久保に会った後、鹿児島への船を待つ横浜のホテルに泊まっていた二人の生別と死別のときであった。

当時大蔵省に籍を置き、のち勧業銀行総裁になる新吉は、明治四年の廃藩置県が西郷・大久保の対立の原点であるとみている。不平士族のさけぶ征韓論は、陰には廃藩置県へのうらみから出発している。幕末から戊辰にかけて、武士階級がその特権を奪われると知って連戦したわけではない。廃藩置県は藩と士族階級を裏切った。維新の結果が廃藩置県になることを自覚していた西郷は、すべての責任を負わされる形で廃藩置県を承知し、不平士族の憤りを抑え続けていた。西郷にとってこれほどの苦しい仕事はなかった。東京政権が確立したのは廃藩置県のおかげでありながら、大久保にはその西郷の苦しみを理解する情緒感覚に欠け、西郷の持ち出した征韓論を蹴った。

この小説自体、無数の挿話の積み重ねであるが、新八と新吉の従兄弟の別れを描くように、戦の中に随所に情緒あふれる物語が重なっている。

ふたりは・・・征韓論の是非については意識的といっていいほどに避けていた。

「非だ」と、両人は叫びたかったであろう。しかし村田新八は遙かな薩摩にいる西郷に遠慮し、従弟の高橋新吉は西郷に遠慮をしている従兄に遠慮をした。もっとも村田新八は西郷に服従して遠慮しているわけではなかった。あるいはまた尊敬のあまり遠慮をしているということもあたらないであろう。村田はかねがね西郷というのは、海のような悲しみを湛えた存在であるように思い、いまここで征韓論の是非という、翩々たる議論の末梢を論じて西郷への評価を左右することをはばかりたかったのである。

高橋新吉は、そういう従兄が好きであった。しかし同時に、かれは国家の運命は大久保利通こそになうべきものであるとひそかに思っていた。

迷走の府

物語は、明治七年、新八の鹿児島帰県まで進んでいるが、この章は、明治初年からの征韓派・非征韓派のあらそいのなかで起きた国家事件、台湾出兵について。

台湾出兵は、明治四年十一月、宮古島船が漂流して台湾南端に打ち上げられ、乗員が先住民の高砂族に大量虐殺されたことを発端として外交問題に登場する。この時期、琉球は日本と清国の両属の関係にあったが、複雑なことにこの宮古島船は、清朝への朝貢であった。また、台湾は十七世紀、清朝が福建省の管下に入れるまで歴史的にながく帰属が不明確な領土で、十六世紀ごろは日本、オランダ、スペイン人が根拠としていた。明朝が満州の清軍にほろぼされ、清朝が台湾府を奥にいたるも、この時期、琉球、台湾をめぐる日本と清朝とにおける国家、国民の観点で曖昧な面があった。

事後処置にあぐねていた明治政府に、駐日公使の米人デ・ロングの軽率な提案も外務卿副島種臣を後押しして報復の台湾出兵が現実的になる。副島の征台策は、明治六年、征韓論をめぐる騒然たる対立、混乱の中でいったんつぶれるが、明治六年十月の西郷下野後、再び、大久保の詐略として浮上する。

征台策は、最初、西郷の弟の従道による、兄の鬱憤と兄に取り巻く薩摩士族の血を鎮静させるための粗暴な政策案であったのを、長州派がすべて反対する中、大久保両人とのあいだの郷党的動機から派兵の進められたものであった。多分に評論家的であったにせよ、人民のための政治を考える点で千年の歴史に堪えるものをもっていた木戸孝允が征韓も征台も当然に反対したのに対し、征韓論を潰した大久保や従道が、西郷のエネルギーを衰えさせようとする内政の問題として取り上げ、大久保の郎党として大隈も理に合わない征台論事務局長官に就くなど、きわめて公的要素の少ないものであった。

明治七年、佐賀ノ乱の勃発と征台と、大久保はこの時期、叛乱鎮圧と外征という二つの大事業を一人で指揮し、実行していた。この当時、各国外交団から嘲笑と軽侮をもって接せられていた中で、台湾出兵という暴挙、愚挙が進められようとしていたが、西郷の征韓論の怨念を払わせるための代用策として、大久保による征台策が実行された、いずれにしても国際関係上、物騒な案のどちらも薩摩人が主唱した。

長崎・台湾

征台のための準備基地、長崎に、台湾蕃地事務都督として軍艦を率いてやってきた従道、また事務局長長官としての参議・大蔵卿大隈が滞留していたところ、在日外交団の圧迫に押された三条・岩倉による政府の征台中止という命令が使者によりもたらされた。三条が使者に持たせた手紙には、大久保に迫られて征台を決意し、勅を乞い、大隈や従道を任命していながら、今度は外交団の横槍であわただしく中止命令を出すという、三条の政治家としての無能と無定見さがあらわれていた。

大久保の意見の入っていない三条の命令に不安をもちながら、元々、征台に信念を持つわけでない大隈は折れたが、従道はきかなかった。幕末の頃から頼りにならない観念的にすぎない勅をたてに自分の立場を正当化し、ついには命令の翌日、独断で軍隊の一部を出発させるという既成事実をつくった。のちに大久保が長崎に加わって従道の独断を追認するが、山縣陸軍卿の下にある陸軍大輔西郷従道が陸軍卿にも相談せず、また、大久保内務卿も国民に報せず、品川で借りた米国船を長崎で買い上げてでも夜盗のように船を仕立てて強行したこの一件は、官製の倭寇といっていい詐欺の手口で、日本史上の珍事件といえる。

日本は維新によって君主国として出発したが、天皇の独裁は歴史的慣習として認めていない。維新は徳川幕府をたおして天皇の親政にもどすのが建前であったが、関白や上皇、法皇が政治を代行する中世と内実は変わらない。あくまで政治は太政大臣以下が担当する。形式的に天皇の裁可を経る。勅分の出るときも太政大臣が起草の責任をもってつくり、それに天皇が御名を書き御璽を捺す。この天皇の一の正確は過去の慣習の延長として自然にできあがった。

征台でみせた奇術的な軍隊使用は、明治憲法に入れられた統帥権により、後に体質的なものとして日本国家にあらわれるが、遺伝的症状として露骨に出たのが昭和期に入っての陸軍の暴走であった。陸軍参謀本部が統帥権という奇妙なものを常時「勅命」として保有し、内閣と相談せずに軍隊使用できるという妄断のもとで満州事変、日華事変、ノモンハン事変をおこしてその都度内閣に事後承認させ、ついには太平洋戦争をおこして国家を敗亡させた。台湾出兵はその先例をひらいた。

大久保は、外交団の危惧する日本の帝国主義的膨張を遂げようとする意思はなかった。薩摩に帰臥する西郷という存在が、あたかも救世主として日本を覆うほどの巨大な像となり、政府の実像より膨張してしまっている時勢の魔術をおそれ、西郷の像をふくらませている時勢の瓦斯をすこしでも抜こうとして征台の策を企てたもので、それほどに西郷の存在には、そのまわりに戦慄、昂奮、反撥をあたえるような不思議な神聖人格といったものがあった。

翔ぶが如く(三)

激突、分裂、右大臣

明治六年、征韓論を巡って廟議は決裂した。

征韓論は、この時期の日本の現実からして愚論でしかなかったが、維新によって出来上がった新国家に落胆し、民族に内在する勇猛心を引き出すために、精気を与え、毅然とした倫理性を日本人のものにしたいという願望を圧倒的な詩的感情量をもって西郷は推し進めようとした。

決裂した廟議の最中、三条実美の昏倒を政局転換の機に利用しようと、伊藤博文が立ち回った。西郷や木戸のような哲学はもたないが、新国家の課題が山積する時代は伊藤のような処理家の手腕を必要とした。伊藤により三条の退陣と引き換えに登場を確定させらた岩倉具視は、副島種臣、江藤新平、板垣退助の参議にかつがれる形で岩倉邸に押しかけてきた西郷の人格的威圧に圧迫されながらも屈せずにはねのけ、西郷の心中に政治的敗北を認めさせた。

決裂と策謀による敗退が確実になると、鮮やかなまでに西郷は一転、退去(退京)に向かう。

挿話

反征韓論者として、征韓論つぶしに勝利したものの、西郷を深く敬慕するがために西郷の退去に対し悲嘆に暮れる薩人黒田清隆のことも書かれている。豪酒家でアルコール性痴呆症の欠陥から評価に難点はあるものの、明治の初期政権においてもっとも実務上の仕事をした人物の一人、何事かを成したという点として、北海道開拓次官として北海道近代化の基礎を築いたこと。

内村鑑三は、黒田の追悼文に、黒田がなければ札幌農学校はなく、自分は札幌に行かなかった、札幌にいかなければ聖書とキリスト教に接しなかったと云っている。クラークを招へいした黒田にとっても最初、官立学校において特定宗教の教育は許可しがたく大議論をしたが、クラークを正しいと思うようになると人に非難されてもクラークの教育を守り抜いた。開拓史の予算でアメリカへ遣った五人の留学女学生の中にわずか九歳の津田梅子もいたが、内村の論法でいえば、黒田がいなければ、津田梅子は渡米せず、後年の津田英学塾もなかったろうということになる。

退去

西郷が退去すると、西郷を慕う薩摩系の近衛士官、下士官も堰を切ったように続いた。西郷に愛された桐野利秋、別府晋介、また近衛指令部長官である篠原国幹でさえ、同郷の黒田清隆の説得もきかなかった。篠原にすれば、今の国家は、薩摩の兵が鳥羽伏見で戦い、上野で戦い、関東で転戦し、北越において難戦し、東北の山野を駆け、箱館へ上陸し、五稜郭城塞から打ち出す弾雨をくぐり、血と戦いの中から稼ぎ出したもののはずの、その国家に裏切られた思いが強い。

大久保は後に常套手段となる天皇の権威を藉りて幹部のほとんどが薩摩人で占められている近衛軍の辞職騒ぎを抑えようとしたが、天皇の権威はまだ小さく、維新の最大の功労藩である薩摩藩が、維新政府の手で滅ぼされてしまった、新政府に裏切られたという意識は天皇みずからの慰撫によっても止めることが出来なかった。

陸軍卿

西郷が去り薩摩系軍人の大量辞職で政府が土崩するかという情勢下、全国の鎮台を巡視していた陸軍卿山県有朋が東京に帰り、長州の先輩木戸孝允に軍の維持、近衛の再建を申し渡される。徴兵令を基礎にした鎮台制を実現しつつあった実務という点で驚嘆すべき能力を持つ山縣は、この難題と混乱の中で自分の栄達の計算を忘れなかった。

山縣の人生の栄達には強い運がつきまとう。つねに頭上に天才を戴いてきたが、不思議に悲鳴により消滅する。幕末の高杉の病死、戊辰戦争で彗星のように出現した大村益次郎の維新後の非業の死、そして今、西郷が去った。やがて大久保も非業にたおれると、明治中期以降、文官と軍人の二つの世界の官僚組織の頂点に立ち、明治権力の法王的な存在として、何者からも敬愛されず、何者からもその魔力を怖れられる男になってゆく。

大警視

大警視川路利良は、国家の繁栄と人民の幸福をもたらすものが新しいポリス制度であり、文明の基礎に警察があるとして情熱を注いだ。西郷の引き立てで警察制度の任を務め、渡仏することになった恩顧を受けながら、西郷、郷党のことは私事として国家を担う大久保の信念の方に随った。

西郷の辞職の同じ時期の話題として「小野組東京移籍事件」に触れられている。政府が東京に移ったのを機に、明治六年、小野組も京都を引き払おうとしたが、ときの京都府大惨事槇村正直が職権発動してこれを握りつぶした。司法卿江藤新平の任による京都裁判所長は槇村を有罪とするだけにとどまらなかった。薩長中心の維新、維新に乗り遅れた肥前出身ということで藩閥に劇烈な反撥心のあった江藤は司法権の独立を徹底するため、罰金刑にしたがわない槇村を逮捕し東京で拘禁した。この槇村をかばい救い出そうとしたのが長州藩の同郷木戸孝允で、江藤の下野後に手を回して槇村を釈放させた。この槇村の釈放に劇烈な批判を建白書にして岩倉に宛てたのが、法は万人に平等であり、法の源泉が国家であるという強い思想を持つ川路であった。大久保はその明快な国家論が、西郷にしたがい藩閥意識の強い薩摩人から出たものであることを喜んだ。

事件だけからすれば悪官員の印象をあたえる槇村であるが、京都府出仕を命じられて、明治後の地方官のなかではもっとも業績の多い随一の人物であった。明治二年の早い時期に京都市内に日本最初の小学校を創設しただけでなく、図書館、梅毒治療所(駆黴院)、外国語学校、女学校(女紅場)、窮民授産所、精神病院(癲狂院)、測候所(観象台)
、博物館、画学校、勧工場、舎蜜曲など、彼が京都で行った事業はどの府県よりも先駆的で、文明開化にともなう施設はつねに京都府が先鞭をつけた。京都人の誇りでもあった。明治初年以来半世紀の間、京都府政は槇村の事業からほとんど前進していない。

明治七年

明治六年十月下旬、西郷が下野すると桐野達も潮の引くように薩摩へ帰ってしまった。

翌明治七年、東京に残留した薩摩人海老原穆は、新聞発行して政府を攻撃する「集思社」をつくるため、旧幕臣の芦名千絵の住む富士見馬場の屋敷の長屋を借り受けた。千絵の兄は彰義隊として上野に籠っていたが、上野戦争の前に斬られた。新政府への復讐心をもちながら、兄と剣闘におよんだという桐野らが、政府をつくった薩摩人でありながら、政府を倒そうとしていることに強い関心をもっていた。

川路はこの時期、鬼神のように職務に没頭し日本の警察をつくっていく。一月に襲撃された岩倉具視の事件を機に、かねて準備していた「警視庁」が翌日に発足する。政府は、岩倉遭難事件の下手人、土佐士族武市熊吉らの捕縛を機に、治安問題に対し、ポリスの増強、大久保の威権をつよめるなど、東京の権力と地方において広範囲に湧き上がりつつある反政府気分との対立がけわしくなっていた。

春の霜、混沌

日ごとに人を集めている海老原の集思社に、岩倉襲撃の翌日、やがて自由民権運動の先唱的運動者になる肥後白川県士族の青年宮崎八郎が訪れてきた。すでに反政府運動家のあいだで名の轟いていた宮崎には川路も目をつけていた。宮崎は、薩摩人が英雄と熱狂的に思っている西郷のことも隣国の人間として冷静にみていた。

征韓論決裂後の西郷の下野という衝撃は、その一事だけで歴史をゆるがした。宮崎の登場、また板垣の民選議院設立建白書など、反政府思想や世論がごうごうとして沸き起こってきた。

新型コロナの科学

4月からの連休中も

交代での応援が続くほか、昨年2月から業務のコロナ対応は、対策そのものに当たる部署ではない(隣にある)ものの、相当な業務量になってきた(・・と過去形で言い切れないのがまたつらいが)身としてひととおりの基礎的な知識を学ぶ勉強用に。と買っていた2月の日経書評欄で取り上げられていたのを連休中にようやっと。

テレビは毎日うんざりするくらいのニュースとワイドショーと責任を問われないコメントと・・の中、仕事がそうなように、信頼できる情報にアクセスしようと思ったらやはり書籍の形で。ちなみに本の中でも当然に頻出する厚労省の対応、というのに自分も直結しているが、批判はもちろんながらも、そうはいえ気が狂うくらいに相当大変なのも事実。。コロナがなくても常態的に。。。

11月までの執筆について出版は12月、再校時の追記として第3波入りとワクチンのことが触れられている。今はさらに第4波と変異株のその後やインドの状況や・・と、毎日毎週が常に変動していく中で真偽の見分けられない情報だけは膨大に生まれ続け・・の現在進行形の情勢下で、エッセンスを整理して一冊の本に・・という難作業に思いをはせつつ、全てが理解できたとは到底いえないながらも、随所に著者のユーモアもあって、特に日本の対応、世界の対応の解説などは興味深く読めた。

そういえば毎日、目にする(耳にする)PCR検査も、何の略かさえ知らなかったし(polymerase chain reaction:ポリメラーゼ連鎖反応法)ポリメラーゼって? DNA合成酵素連鎖反応? 結局、PCR法の原理を解説されてもよく分からないのだが、理解できるところも(一部には)あるし、コラムで紹介されているPCR発見物語は傑作だし、仕事もながら、今後も含めた生活や社会を変える契機としての啓発書に考えさせられることは多かった。

新型コロナの科学 黒木登志夫著: 日本経済新聞

蜩ノ記

読んでいない本は沢山ある中

日経日曜紙面の「名作コンシェルジュ」という音楽、文芸、映画・・各評論家による紹介コーナーに先々週、取り上げられていたので連休用に。

読んでいない・・の代表は、昨年、この頃にエントリした司馬遼太郎の「翔ぶが如く」で、十巻中のまだ五巻目。。単純に遅読、というのもあるが、読み応えが大きすぎて、一気に読めない且つ各章読み終える都度、もう一、二度ざっと再読して理解を深める・・というとカッコイイが、単なる理解力不足というか、何度読んでも吟味しきれないくらいのものがあり。

に比べると、純粋なノヴェル。映画でも観ているようにスッと読めてその先の展開を楽しく追いかけていける、人はいかに生きるべきかという普遍的なテーマを中心に据えつつ、それがあまり道徳一遍になってしまわないよう周囲にミステリーあり友情に純愛に・・・もふんだんに散りばめられたエンターテインメント性満載の興趣に富んだストーリー。

心洗われるというと陳腐な感想になってしまうが、純粋に涙するところは多くあって、名作に違わぬ感動を味わえた。著者による西郷作品もあるようなので読んでみようと思う。

葉室作品の根底には、日本という国や日本人とは何かを物語を通じて追求し、現代への提言としたいという意図がある。秋谷を巡るドラマにより表現された、人の生き方は、そこに繋がっていくのだ。

(日経紙面:文芸評論家 細谷正充)

この父ありて/梯久美子

日経土曜紙面

詩歌教養面、というか読書面の1ページ前のコーナー。「日本人の心に刻まれる作品を残した娘たちとその父のドラマを、昭和という時代とともに描いていく」というテーマでの新シリーズ第1回。

ノンフィクション作家の梯さんというのは、キリッとしまった感のある論調の人という印象があって(ノンフィクションライターというのがそういうものかもだが)、名前を見ると読んでみようという気になる(今は毎日新聞のコラムも担当されているよう)。

昨日までの初回はベストセラーになった「置かれた場所で咲きなさい」の著者、渡辺和子さんを取り上げていて、計5週、氏の人生を淡々と静かに紹介。著作を読んだことのない自分には、全て初めて知る壮絶な内容だった。

二・二六事件で叛乱軍に43発の銃弾を浴びて血まみれになった父を目の当たりにしても軍人の娘として教えられたとおり泣かなかったこと、29歳での受洗・・。最終回は、事件後50年、ずっと迷っていた、刑死した15人の青年将校の法要に、50年の節目に決心して出席したこと。

「正直に申しまして、敵を許す、というキリスト教的な心がけがあって出席したわけではありません」

和子が考えたのは、父なら何と言うか、ということだった。「きっと、出なさいと言うと思いました。軍人の娘は背中を見せてはならない、逃げるな、と」